涙と汗の栄冠
北米福岡県人移民物語(第二部)・・・昭和51年12月8日〜10日、西日本新聞掲載・・・
福岡県出身の北米日系人の足取りを追って第一部では渡航時の辛苦や密航、木賃宿の生活、一世の妻たちの嘆きに耳を傾けてきたが、第二部では 北米大陸狭しと心も躍る大活躍を繰り広げたパイオニアたちや第二次世界大戦中の戦時抑留所の実態、そして戦後の安定した発展振りを探ってみよう。
名前を胸に刻んで慶応元年(1865)生まれ、久留米市梅満町(旧三潴郡鳥飼村)出身。
上妻郡山内中学校卒業後、九州の名儒北ぜい塾北河内村塾に学び、上京して玄武館にいる。明治二十二年一月渡米、サンフランシスコに上陸、白 人家庭に入りスクールボーイ生活やニューホープでのポテト耕作のあといよいよ二十九年、サンフランシスコ湾の東部地域(イースト・ベイ)に廣がるスタクト ンの原野に目をつけ、ポテト栽培に挑んだ。
スタクトンは、サンウォーキンリバーとサクラメントリバーが流れをあわせたデルタ地帯で、それまで何人もの白人が耕地化しようと桑を入れたがいずれも失敗、馬をのみ、人を吸い込む湿地帯は、”悪魔の湿原”と呼ばれた。
牛島は、入植後大正八年までの二十三年間に六万二千八百エーカーの耕地を開墾、湿原を"ポテトの宝庫"に変えた。 牛島の"島"をとった「シマ・ファンシィ(シマの優良品)」のブランドをつけた商品は全米に出回り、アメリカのポテト相場を牛耳ったポテトキング牛島は、福岡県が生んだ最大のパイオニアであるのは勿論、日系人移民史の中でも最高の位置を占めている。
「うーん、度胸の伊男でな、そりゃ桁外れでしたよ」 ロサンゼルスで取材の基地にしていたリトル東京の広畑保険事務所に、ひょっこり現れた小川好雄さん(八女郡北河内村出身、八十一歳)は、大正三年から牛島農園で働き、大正十五年、牛島の氏に水を取った人。 「かと言って、ふだんはおっとりした男でな、大口をたたいたことがない。様子のいい男で背も高く、顔立ちもくっきりした押し出しのいい男でしたな」 牛島翁の話なら何時間でも...と懐かしい顔であそう言った後クスット笑って「よか男の割りに身辺が綺麗で女のつかんだったですな」。
ポテト王を語る小川さんは、旧制明善中を卒業(大三会員)した大正三年、牛島とは北側地村塾の塾雄だった人が破産したため牛島翁から三千万借金しようと渡 米。 「ところが牛島さんは大正四年にシスコで開かれる万国博に大金を投資している時で借金は断られましてな、それで鷲はそのまま牛島農園に居候よ」 当時、農園はポテト作りが中心だったが、土地を休ませるためにビンズ(赤豆)や麦も作っていた。耕地は牛島の"島"から名付けた島ツラック(島区域)に二 千エーカー、ボーデンアイランドとマンダビルに各六千エーカー、計一万四千エーカーもあり、」そりゃあめまいがするほど広かった、小川さんの記憶では、大 正時代、カリフォルニアに一万エーカーを越える大農家はなかったという。 (梅本記者)
第二部小川好雄さん(八女郡北河内村出身、八十一歳)の話は続く。湿原地にうっそうと繁るピート。 「耕地化は無理」といわれたスタクトンをポテト王・牛島謹爾(久留米市出身)は、湿地帯の水をポンプで吸い上げ、席を築き、人工島を作っていく方針で克 服。人工島は、島ツラック(島区域)あはじめ十九島にもなった。大正三年から牛島農園で働いていた小川さんは「何しろ沼地に浮いた島でしょ。堀が沈んでい くので、 それこそ三百六十五日、包みに土を盛っていましたな。ランチ(畑)は取り巻く川の水より四尺(約一・三メートル)も低かったんで、水を挙げるポンプもフル 回転で、その電気代だけでも一日三百ドルはかかっとった。それでもランチはぬかるみで、プカンプカンしとったよ。馬を使ってあぜをこさえていましたが、そ の馬が年に ニ・三頭はぬかりこんで影も形もなくなりよったですからな」。
農園には筑後地方出身者を中心に日系人がざっと五十人、メキシカン約三百人、ヒンズー(インド人)約三百人で常時五百人を超える。"働き人"が入っており、ぬかるみの中に高さ約十尺(約三メートル)の太いポスト(棒)の上のキャンプに住んでいた。
湿原は水を除くと沃(よく)土に変わった。 「ランチの上は土というもんじゃなくてね。そうピートちゅう植物の小さな根が累積してできただけに肥えて肥料知らず。ポテトは植えっぱなしで育ちましたな。ピートに目をつけたのが牛島先生の偉いとこでしょう」
ポテトは、おい繁るピートを焼きながらスタクトンを開墾していったが、ピートが累積したランチは火がつきやすく投げ捨てたタバコからボーウッと燃え上がっ たという。 ポテトの種はアイダホ、オレゴンから移入、霜が終わる三月に植え込んでいた。「取り入れにはミシーン(機械)を使わず手で掘っていましたな、そりゃようい かっとって長さに十センチ、直径十センチもある太いポテトがごろごろ。掘ったポテトは麻袋に入れて畦においとくんだが、その袋が四十センチおきにズラーッ ト並んで壮観でした。一千エーカーから並みの生地の三倍の四百俵はとれよったですよ」 死ぬ直前の大正十五年まで連日三十貨車(一貨車三百俵)出荷していた。
晩年のポテト王は、さすがに気力も衰え、土地を手放して現金に買え、日本で余生を送りたかったらしく、大正十五年、ロス市の銀行家を訪ね、土地売却の相談 をした。一千エーカー五十ドルで売る腹だったが銀行家から「ジョージ(牛島氏の愛称)そりゃムリだよ」と言われたその夜ハリウッドのホテルで倒れ、永眠し た。「牛島さんも晩年は気が弱くなっていた。私が初めて会った頃はすごかった。アイダホ州に買った一万エーカーの土地が耕地として使い物にならんのが分 かった時でも。"あぁ、あの土地を買うときは居眠りしとったからな"ときにもとめなかった。一万エーカーですよ。その太っ腹が"ジョージ、だめだよ"一言 でねぇ......」 遺体は汽車でストクトンに送られた。 第二部(3)
「この土ですよ、ポテト王を生んだのは」地平線まで続くポテト畑。風に舞うスタックトンの土で、顔も背広も真っ黒になった小桜アルバート繁さん(甘木市福田町出身、湾東部福岡県人会長、六十九歳)が思い切り背伸びをした。
「口ん中まで砂だらけバイ」と、何回もつばを吐き背広をはたいていた。記者は小桜さんに「これくらいの汚れを気にしちゃパイオニアの苦労は分かりませんよ」と、ポンと肩をたたかれた。 今年六月十七日、小桜さんの車でバークレー市から約一時間、久留米市出身のポテト王牛島謹爾が経営した旧牛島農園を訪ねた。
スタクトンの川下地方(デルタ地帯)に入ると、幅二十メートルから百メートルある川が網の目のように走り、何本も橋を渡った。車はその川の堤を走る。川の 反対側に広がるランチ(畑)は川の水位より低い。日系人がふるさとを偲んで植えたと言う筒者柳が、乾いたカリフォルニアの日射しに光っている。
「この川、水路なんですよ。ランチは人工の島でね。働き人たちが沼地をポンプで水揚げして耕地化したんですよ」と、小桜さん。 私たちを真っ黒にしている土は、日系人が蒲(ガモ)と呼んだ植物・ピートが堆積したランチの土で、粒子が細かい。その槌が、走っている車の窓枠にまでこの雪のように積もった。 牛島ボーイ(牛島農園の日系人)だった権藤清(久留米市宮の陣街出身、七十四歳)が 「昔から風の強いところでね、風に飛ばされてランチの土が減るほどじゃッた。このランチに馬がいぼり(はまり)こまんごと馬の足に麻で作った大きな袋を履かせてな、朝は暗か四時ごろから働きよったなぁ。ヒルの弁当は、決まって柳の下で開いてな」
島ツラック(島地区)にある旧牛島農園事務所には、現在愛知県海部(あま)郡津島街出身の服部耕蔵さん(七十一歳)が住み、農園を経営していた。事務所は緑の屋根の木造三階建て。 「今じゃあもう牛島さんが開いたランチを耕作してる福岡県人は居ません。私と後はメキシコ人焼いたり野人ばかりで..........」と服部さん。 私たちの車を見送り、太い指で握手しながら服部さんは「牛島さんは偉い人だった。私はね、牛島さんの胸像をこのスタクトンに建てるのが夢なんです」と熱っぽく繰り返した。
帰途-牛島さんの遺徳を偲んでいるのは日系人ばかりではない。その証拠を見せますよ」と言う小桜さんの誘いで北部スタクトンにある昭和十年創立のデルタ・ カレッジに寄った。夜間科学生を含めて一万八千人が学んでいる大学の庭に、高さ四メートルの"SHIMA"(シマ)のポール。 大学は五つのセンターに分かれており、それぞれのセンターには初代州知事や創立者の名前がついているが、白人から「ジョージ・島」と呼ばれた牛島翁の名前 もスタクトンを開拓したフロンティアとしてその一つに加えられたのだ。
シマセンターは敷地三十三エーカー、農、写真、心理学、放送学の四科があり、キャンパスにシマ・パークもある。 キャンパスの学生にインタビューしたが「郷土を開いた偉人として知っている、と言ってますよ。このポールが牛島さんにささげる最高の墓碑銘です」と通訳役の小桜さんの顔は誇らしげだった。(梅本記者) (昭和51年12月10日)
・・・平成9年10月20日西日本新聞掲載・・・
久留米市出身で戦前、米国でジャガイモ栽培に成功、"ポテト王"と呼ばれた牛島謹爾(米国名ジョージ・シマ)-今月二日から一週間にわたり、米国カルフォ
ルニア州モデスト市との姉妹都市締結五周年を記念して訪米した久留米市の友好訪問団は、同州ストクトン市に、「シマ」の名を冠した教育センターのあるサン
オーキン・デルタ・カレッジを訪ねた。米国の歴史に名を残した牛島謹二とは、どんな人物だったのか。足跡をたどった。
ストックトン氏は人口約二十万人の学園都市。カレッジ端の中心の六十七万平方メートルの敷地に、五つの教育センターで構成されている。その一つ、レンガ造 り二階建ての瀟洒な建物が「シマ・センター」・一階のシマ・ラウンジでは十数人の学生が黙々と勉強していた。七十人近くの訪問団を前に、同大が社会学担当 のドップル・マイヤー教授が説明を始めた。 「一九七〇年に五つのセンターの名前を選考する委員会が作られ、私もメンバーの一人でした。シマは、カリフォルニア大学バークリー校に多額の寄付をするな ど教育、文化にも功績があり、約四十人の候補の中から選ばれました。
シマ・センターは農学部棟とも言われ、謹爾が生涯取り組んだ農業を学ぶ研究施設が入っている。
謹爾は江戸末期の一八六四年、三潴郡鳥飼村掛赤(久留米市梅満町)の農家に生まれた。勤勉で一度決めたらとことん熱くなるタイプ。東京高等商業学校(現一 橋大学)在学中、英語の落第点で進級できないことが分かり「英語を学ぶために本場に行く」と渡米を決心。一八八八年、二十四歳で単身旅立った。
皿洗いやぶどう罪など日雇い労働をしばらくしたが、サンオーキン郡の農場で働いていた三重県出身の福島新太郎と出会い「力をあわせて大事業を成し遂げよ う」と意気投合。謹爾葉米国人がよく食べるジャガイモ栽培に目をつけ、農場で働きながら経験と研究を積んだ。久留米で農業をしていた兄覚平も呼び寄せた。
晩年は差別と戦うことに人生を捧げたが、二十六年、商用先のロサンゼルスで急逝。六十二歳だった。「農耕学者、農業発明家、博愛主義者であり、出る他地方の開墾者」。シマ・センターに、そう書かれたブロンズ板が掲げられている。
謹爾のよきパートナーだった兄覚平の孫、牛島信夫さん(六十六)は久留米市津福本町に住んでいる。「謹爾にあった事はないが負けじ魂と努力の人であったと 思う。年一回、謹爾を追悼し八十人ほどの家族が米国に集まる。彼の農地は今はなく、世代も三・四世になったが、功績は家族の間で、米国の歴史の中で何時ま でも引き継がれていくでしょう。と話してくれた。(前田英男記者)
メモ1.体型 身長:1m80cm 体重:100kg 風貌は「威風堂々」加えて「強健な身体」 2.性格 1.底抜けの「純情派」 2.人事を尽くして天命を待つ「楽天家」 3.生活は質素にして「闊達・明朗」 4.「慈善心」に富み、「謝恩・感謝の念」は大 5.欠点は「猪突猛進」、後の備え不足 6.親分肌で小事に拘らぬが、不正を許さぬ性格 3.趣味 酒、タバコは遣らず、女っ気は全くなかった。 唯一、漢詩を作る。 角力もよくやった。 子供の様に「赤」が好きで、庭には緋桃、 緋牡丹を植え、絨毯もテーブルクロスも赤だった。