発行者の言

 故牛島謹爾氏は私の先輩である  「清吉」の名に於て、私ば原古賀小学に於ける牛島先輩を思う。  「謹爾」の名に於て、私は日本に於ける牛島先輩を懐う。   「ジョーヂ・シマ」の名に於て、私は米大陸に於げる牛島先輩を憶う。  「無官の大使」の名に於て、私は日米両国間に於ける牛島先輩を念う。  「ポテト王」の名に於て、私は世界に於ける牛島先輩を想う。 

大正十五年三月、牛島先輩の逝くや、世界各地の新聞は、其の訃音を伝え、其の偉大なる.功業を礼讃した、天恩優渥、勲四等を賜はった、在米日本人会は追悼会を開き、太平洋の彼岸に記念碑を建てた、東京人も追悼会を開いた、ひとり故郷久留米が,聊か寂蓼の感があるようだ。

春の日や故山の風の冷たさよ、私は何等かの形式で、彼を記念したいと思う。 

倉富筑川君の手に、彼の略伝が成つた、私は之れを多とし、出版する気になった。  

昭和七年春  是々菴に於て             発行者 淺野陽吉 識

              

倉富筑川

緒  言

 

牛島謹爾氏の逝去以來既に七年・,其の名前は海外に於ける本邦人成功者の例證として、よく引用されるが殊に咋年から小学校の修身教科書中「進取の気象」と云う課の中の例話人物として、全国到る処に宣伝せられる事になったのは、独り氏の名誉ばかりでなく、久留米市が持つ大きな誇りの一である。 

然し遺憾な事には・氏の事に関して書かれたものは余り見当らず、又、一般の人でも、断片的には話頭に上すにしても、系統的に調べた人も余り聞かない。私は痛く之を残念に思い、それぞれの手蔓を求めて、氏の兄妹、親戚、旧友、旧師の遺族其他各縁故者から色々の資料を得た、本篇はそれ等を簡単に率直に纏めたものである。

彼の別名

牛島謹爾氏には幾つもの別名がある,、「馬鈴薯王」と云うのは其の一つである、それは彼が徒手空拳、天涯無縁の北米合衆国の天地で、苦心経営数十年、遂に仝国加州に於ける馬鈴薯全産額の七八割を支配して、その一挙手一投足は合衆国全部の薯価を左右し、其の生産品は全米は愚か、マニラ、南洋、南米方面まで供給され、一世よく数千万ドルの巨富を克ち得た事業賞讃の名前である。 

第二に「ジョーヂ・シマ」と云うのがある、是は彼の人格の高潔を表すもので、白人間に呼ばれた名である。「ジョーヂ」は合衆国建設者「ジョーヂ・ワシントン」の「ジョーヂ」で「シマ」は牛島の島である。 

第三に「無官の大使」と云うのがある。彼は加州排日事件の最も高調した明治四十一年一月在米日本人会会長に推されて、爾後十五ヶ年間、事業経営の傍、日米融和の為に奔走し、又色々な外交問題など起った時、我政府に対して有力な進言をねす事も屡々であった、是が「無官の大使」と称せられていた理由である。 

第四に「別天」と云う雅号がある、彼は嘗って旧師三島毅博士に自分が開拓し経営している大農園の命名を乞うた時、博士は是に「別天地園」と命じた、それから自分の雅号を「別天」と称した。 以上の四つの名前の外本名「謹爾」があるが、謹爾となる前は「清吉」と云って居た。 (以下敬称を略す)

生家及び少年時代

久留米市梅満町の一部掛赤に牛島家がある。其の附近は大正六年、市に編入される以前は、鳥飼村大字梅満字掛赤と云う農村であり、牛島家も勿論一農家であった。 幕末の頃、此の牛島家の主人は弥平と云い、妻をタイと云うたが、家は二百年来の旧家であり、弥平は村役人まで勤めて居り、・タイは漢文の素養まであるご云うので、.村人からは、相当の敬意を払われていた家であつた。 

牛島家に四人の子女が生れた、長男覚平、二男弥三郎、三男清吉、次は女子、リカである。而して三男の清吉は、横も縦も、づ抜けて大きく成長した。そうして長兄や次兄の従順に似ず、無口な強情な気性が次第に現はれて来た。 

長兄次兄は農事の手伝いをする程になって来た、然し清吉ばかりは少しも家の事など顧みないで、附近の子供を集めては餓鬼大将になっていた、併し彼は弱い者は決していぢめなかつた、女の子をいぢめて居る少年の群に飛び込んで、是を救い出す程の義侠心さえあった。 

八九歳の頃、両親は彼を同村の手習い師匠の稻益と云う人に通わせて学問の手ほどしきをやらせたが、豫ての腕白にも似す学問に対しては中々真剣であった、村の鎮守で夏祭が行われた時、.御神燈を張って、それに筆を揮って居た人があった、一心になって見入つて居た清吉に、「お前も手習いに行っとるなら、一つ書いて見ないか」と勧めた時、清吉は「ウム、書いてもよい」と承諾した、やがて清吉の前に差出されたのは横が一間、縦が二尺もあろうと云う大きな物であった。清吉は、やがて筆を揮って太閤記七本槍か何かの絵をかいた。村人は彼の大胆と着想の奇抜な事に舌を巻いた。 

体の大きい、年よりは三つも四つも大きく見える清吉は、やはり農事を顧みない、それで時折、父は彼に米搗を命ずる事があった、彼は強情な意地っ張りではあったが、両親や二兄の命令に反抗する様な事はなかった。一臼の白くなる杵数を計って記憶していた、それで所定の杵数になれば一度も検べないで止めてしまった。

小学時代

明治五年、学制が頒布されて初めて小学校が出来た、明治八年、弥平はは清吉を小学校に入学させた、学校は久留米市原古賀町にあった原古賀小学校で、校長は武田良輔(今の久留米商工会議所理事武田令太郎厳父)次席は林田_汰(今の久留米市通町郵便局長林汰実之吉氏巌父)ご云う人であつた。

此の時、清吉は既に十二歳になって居た、然し体は十五六歳位の少年と何等異なる処はなく、負けじ魂の強い彼ば少年輩と机を並べる事が不満であった。そして一足飛びに進級して行く方怯を研究した、其のの当時は小季校でも試験が行はれて、合格した者は一定の時期より前にでも、どしどし進級して行くと云う制度であったから、彼は懸命の努力を払って此の特別進級の恩典に浴しようと決心した、彼は先づ林田氏に放課後の特別指導を願ったが林田氏は快く承諾し、規定の課業終了後、十二軒屋の自宅も於て、二三時間位、算術と四書五経の素読とを授けた、それがら又彼は武田氏にも同様の事を願った、武田氏も快諾された、依て清吉は林田氏方からの帰途に津福の武田氏方へ往くことになった、時折には其等の師の宅で養蚕や茶摘などの手伝いまでして帰る事もあった、.夕食後は、ほの暗い燈の下で一人黙々として一日の予習と復習に余念もなかった、処が清吉の勉強欲はまだまだ、飽満はしなかった、ぞれは朝の時間の利用である、彼は当時久留米市裏町に住んでいた石橋作太郎と云う漢籍の師を物色し、朝の教授を嘆願した、石橋氏は彼が勉強欲の旺盛振りを驚嘆すると共に、一番鶏(午前四時)から夜明まで漢籍の素読を授ける事にした。

清吉は斯くで一日を全く勉強に没頭する事が出来た、そうして、一日として是を休まなかった事が三年間、聞く者は皆彼の意地の強さに驚かないものはなかった。

清吉の意地の張振りを現わした其の当時の一挿話がある、これは当時、此の小季校の教師間で、輿地誌君(当時の世界地理書)の抜粋を暗記する事が流行して居た、一教師は其の抜粋を写し取る事を清吉に頼んだ、彼は「必す、明朝持って来ます」と承諾した、翌朝になって入念に書写した一綴りの抜粋書を差出した、敦師は驚いて「どうして書けたか」と聞いた、清吉は「徹夜でしたもの」と云って、机に摩って痛んだ右肱を手拭で巻いて居たのを示しながらニッコリした。

まだ「農業に学問などは無用のものだ」と一般が思っていた頃である、清吉は専心に勉めて居たが、父親は時折「少し位、百姓の稽古もしなければ、先の為にならないから」と云って彼に野良の仕事をやらせようと勧める事もあったが、そう云う時は彼は、すいと庭先から裏の田圃に出て行って附近の畦を一週し、やがて忍び足で裏木戸から書齋に入り、黙々として夜の更くるをも知らす書物に親しんだ。

こんな努力の結果は、次第に現はれて来て、・彼は遂に最上級に編入される試験を受けるまでになった、其の時、校内の古参である石橋、倉八、平井等五人の者から学校に封して抗議が出た、それは「在学年数の少い牛島を、年数の多い私共と同級になすと云う事は吾々に恥辱を与えるものです、牛島の受験を思い止らせて下さい、さもなければ私共は同盟退学致します」.さ云うのであった、数師は不得己情吉に受験を思い止まる様に諭した。そしで彼の五人の者等、は直接行動に訴えて、清吉を袋叩きにした、清吉は憤然として叫んだ「不條理を云う学校には用はな.い、`今日から止めだ、俺は別な方法で成功して見せる」、それ限り彼は学校に行かなかった。

此の学校騒動が起きたのは明治十年、清吉が十四歳の時であった、・彼が気象として随分癪に障ったに相違ない、「俺は.一生是の恨みば忘れない」と熱涙を揮ったのでてあるが、彼が晩年、帰省を思い立った際旧師林田氏へ送った手紙の中に、

其の節必ず先生を拝謁、五六.十年前石橋倉八平井等より イジメラレタル話と其之に対する憤慨を更に貴耳に入れて慰み可致候 かき送り、又   倉八、早川諸氏は今に壮健に御座候や と書いて居るのを見て彼が心中は推察される。

漢学修行

       

一、中洲校に入る

清吉は十五歳になった、明治十一年三月二日、同村の牛島萬作、同妻トセご養子縁組をして入籍し、.越えて十六年二月廿入日相続した、然し是は只名叢上のもので、実際は、実父弥平の家に居たのである。

小学校を退いた彼は、徒然の日を送って居た、両親も彼の心を不憫に思って、「明善校にでも入って勉強したらどうか」と勧めて見たが、彼は「私は漢学を専攻する学校に行きたいから」と云って断った、当時筑後八女郡の山内村で中州中学と云う漢学塾を経営して居る樋口真幸と云う人があった、号を和堂と云って地方では有名な学者であり、其のの学校の教頭川口深造氏も号を老川と云う篤学の士であった、清吉は其の学校に入った、時は明治十二年、清吉十六歳の時で、彼は此処に初めて笈を負うて、.郷關を出たのである。

   方逢斗転律回初、詩友盍簪歓有余、短咎従今添一線、祇応努力惜居諸

是は中州校入学の年「至日小集」の題下に詠んだ彼の詩である、彼は此の頃から思想的に非常な変化を生じ古聖賢を学んで是を己の範にした事が以後の詩文に幾つも現われて居る。

ニ、北(シ内)義塾に転ず

 中沸学校は在学二ヶ年で、北(シ内)義塾に転学した、北(シ内)義塾は江碕済氏の家塾であった、江碕氏は地方に隠れなき漢学者である、年十歳の頃から、幕末の頃まで有名な加藤米山の門に入り、明治二年筑前亀井塾に転じ、同三年東京の安井塾に移ったが「帰去来」八首の詩を賦して久留米に帰郷し、明善堂に教鞭を執った、同四年、職を辞して、八女郡矢部の山中桑取藪に移り、六年矢部村小学校を創設し、十二年同郡北河内小学校に移り、傍、北(シ内)義塾を開いて幾多の青年を教育していた、'北(シ内)塾には後の陸軍大将仁田原重行、東京三越の重鎮となった日比翁助、・漢詩人宮崎繁吉(来城)などの諸氏が居た。 大正十一年五月、江碕氏の喜寿の祝宴があった時、北米から送って来た謹爾の祝文に、当時の塾生々活の一斑を偲ばせるものがある。

謹爾之従先生荘北(シ内)塾也 屈指己三十六七年矣、当時網羅一方才俊、 桃李満門、有郁々乎文哉之歎、而先生則左提右掖、善誘啓発、朝経暮史、切磋太力、 時侍春花之遊於善神山頭、又従秋月宴於星野川畔、優遊厭飫、南面百城之樂不啻也、

清吉が、北(シ内)塾に同姓同名の鈍物が居るのに嫌らず、江碕先生に乞い、謹爾と改名したのも此の頃の事である、謹爾は塾友から推されて組長と勤めるまでに重んぜられて居た、そしで学間に於ても其の右に出づるものはなかつた、当時彼は一意江碕氏に私淑して先生を範して自分の将来を決しようと思って居た「俸給生活者では駄目だ、男子は自ら樹立する所があらねばならぬ」と「江碕氏に諭されて、彼は愈自立の途ー漢学の大学者、一大著述家ーに奮起すべく精進した。.

其の内、同じ北(シ内)塾生の仁田原は士官季校へ、日比は慶応義塾へ、其の他の学友も各目ざす所に向って次第に此の山塾を巣立して行つた。彼も途に雄心抑え難く、両親の許しを得て、上京の途に就いたのは明治十八年、彼が二十二歳の春を迎えた時であつた。  当時、福岡県庁の参事官として令名高かった蒲瀬瀧千は久留米梅満の人で、牛嶋家とは親戚同様の交際を続けて居たから'彼は上京の途次蒲瀬を訪うた、.其の目的が漢学研究の為であると聞いた蒲瀬は「今から漢学を研究しても駄目だ、英語をやり給え」、と忠告したが謹爾は「英語は西洋の思想だ、日本の国体観念は漢学によって養わねば駄目です」と主張し其の翌博多出帆の汽船で東京に向った。

東京には親友日比が待って居た、日比も「折角上京して漢学とは」、と思ったが、本人の希望であるから色々漢学の塾を調査して三島毅博士の二松学舎に入学する事に決した。本邦屈指の大家に入門した彼は愈馬力をかけて勉学し、博士は非常に彼を愛して、出入には彼を伴うた。「君は福岡県鳥飼村の人、三十年前我が二松学舎に学ぶ(別天詩稿九頁)」と三嶋氏は.別天地園記の中に書かれて居る。彼は極めて辺幅を飾らない男であつた、嘗て蒲瀬が上京した時、其の破れ袴を見て気遣い、故郷の牛島家に「新らしい袴を作つてやって下さい」と云い送った時、二ヶ月前に新調の物を送った故郷では不思議がって、'質に入れたのではあるまいかと云い送ったら「人のお伴位で新しい物は勿体ない、自分の用の時に新調の物をはいて行く爲、大切に保存して居る」という返事を送った。

彼が東京に馴れてくると共に、当時の世相が眼に映じて来た、そして将来は實際社会に役立つ学問でなくては駄目だ、云う考えが.次第に深くなって来た事が察せられる。

渡米の決心

恰も其の時であった、矢張り久留米の荘島町出身で、後に久留米商業学校長や代議士をめて居た浅野陽吉氏が上京しして来た。浅野氏は、謹爾が在学中であった際の原古賀小学の生徒で、謹爾よりもズット年少で、学年もズット後輩であった。浅野氏の上京は、.高等商業季校へ入学の目的であったので、謹爾も一所に受験して見たが、彼よりも後輩であった浅野氏は合格して、彼は不合格であった。其の詰果、謹爾は英語の素養の必要を認めて、今までの方針に大なる変動が起きて来た、そして「英語を研究するには日本Hでは駄目だ、本場の米国に行き労働の傍、研究する事だ」と決心した、そして二松学舎を辞して京を出て、其の頃福島県会沢郡に居佳せる郷友志田奥曽吉を訪い、新潟に出て、便船を求めて帰国の途についた、が下関に着いた時ば全くの無一文であった、門司から徒歩二昼夜の後掛赤の自宅に帰り着いた。

郷里に帰った謹爾は、堅い決心の下に渡米を志して居たが、行けば既に年老いた両親とは是が今生の別れとなるかもしれないと云う考えがあったに相違なかった、それで其の時病褥中にあった母に其の許しを受けるは、忍ぶべからざる心苦しさであったが、元来気丈の.母親は快く承諾した。父親は「米国は遠すぎる、東京位ではどうか」と云って許さない、実際其頃は米国に行く者などは此の地方には誰一人居なかつた、「地の下の国」だと云って恐れられて居た時代の事であるから。

謹爾は父の快諾を得るまで待って居ようと考え、旧師や旧友を訪ねて自分の悶々の情を訴えて居た・其の旧友の一人は観相家として有名な石龍子、即ち中山時三郎である。右龍子は国分町に住んで居たが観相上から「成功疑いなし」との刻印を下した、武田、林田、江碕め三旧師も度々訪ねて意中を語つたが、初めは壮挙を危んだが、其の決心の堅きと、其の性格の適合から皆賛成した・父の弥平も遂に我を折って彼に快諾を与えた。

いよいよ・渡米

喜びに躍る胸を抑えながら、僅かに百円余の旅費を懐にし、「変人だ」「学のぼせだ」と云う近隣の人々の冷笑に送られながら、東京に行ったのは明治廿一年の秋で彼は廿五歳の時であった。それから其の年の十二月八日、横浜出帆の汽船に便乗する事に決し、僅かの手荷物と、数人の在京友人等から送られて故国を離れた。

謹爾は勿論三等船客であったが、同船中に一等船客の温顔な立派な一人の紳士があった、それは後の大審院長として令名高かつた三好退藏で、ドイツに行く途中であったが、折々甲板で顔を合わせる中、遂に懇意となつた、「牛島と云う青年は実に面白い男だ.必ず成功するに相違ない」と、三好は人に語ったそうである、新年は船中で迎えて彼は廿六歳になった、そして桑港に上陸した、桑港で彼が訪う入はカイエリオと云う貿易商である。それは当時既に慶応義塾を卒業して三非の社員となって居た親友日比の尽力によって、三井の取引先である開係上、三井からの紹介状を持って居たのであった、彼は覚束ない英語を操りらながら漸くカイエリオの宅を尋ねあて、初対面をしたが、大変親切な男で、単身故国を離れて自活の路を求めて来た日本青年に深く同情して、緩っくり自分の宅で休養して、族の労れを直す事を勧めたが、'彼れはそんな悠暢な日を過ごす事は出来なかった、彼には生活と云う大なる問題が横たはって居る、彼は一週間の後カイエリオの宅を辞して愈白人間に伍して奮闘のスタートを切ったのであった。

彼れは白人の家に雇はれて皿洗いもやった、薪割りもやつた、そして転々として漂浪するうち、馬鈴薯は白人の常食である以上、其の栽培の如何に有利な事業であるか、と云う事に想到した、そして其の主産地は桑港から東方海岸山脈を越した加州卒野である、と云う事が分って来た、そして彼は誰にか就いて其の栽培法の研究をやりたいと考えた。  彼が桑港を去る東北八十哩、サンオーキン郡ニユーホーポ村に辿り着いたのは明治廿二年も暮に近い頃であった。其の附近は薯作地でもあり、薯作の名人も住んで居た、彼れは先づ薯作法を体験せんが為に「給料は望みはない、是非自分を使ってくれ」と、薯作りの名人に申し込み、其の農園に働いた、そして得た給料の内から事業を体験しゝ貯蓄した。  彼は之を資本として、種薯を購入し、独立耕作を企画した、村の顔役であったバーの主人サルントンと云う者の周旋で、十五エーカー(一エーカーは我が四段廿四歩)の橡をかりて愈々自作の第一歩に踏み込んだのは、明治廿三年、彼が廿七歳の時であった。

開拓事業、兄覚平を招く

其の後此の地方に集まった本邦人が二人あった、一人は福島という静岡県人、他の一人は渡邊と云う新潟県人、それに彼が主宰となって今少し大々的の計画を実行しようと考えた、此の地方に昔から捨てられて居る広い草地があった、夫れはサンオーキン河と云う長さ百四十里の河が北流し、南流するサクラメント河と合流せんとする処に、形造った沖積地で、面積は四十哩四方もあり、其の中には、大小無数の分流が縦横に流れて、五千エーカーから二万エーカーの六十有余の島々を作って居る、毎年十二月頃から三月頃にかけて襲って来る大洪水毎に上流から沃土を流して来て、高さ丈余の蒲の叢と、幾抱えもある楊の密林で、恐ろしい淋しい湿潤な土地であった。此の地に着目したのが謹爾であった。洪水の侵入を防ぐ為に大堤防を築いて、内部の水をポンプで排水し、土地が乾いた時を見定めて火を放ち水草を焼き、焼け残った楊の株は馬を使って引き抜き、其の跡をならして耕地にする計画であった。

計画は既に出来上った、併し謹爾には開墾に封する経験がない、叉農事の知識も持たなかった、同志の渡邊は呉服屋の子である、福島は医者の子である、三人共に農業の實際家ではなかった、此にはどうしても実地経験家の腕に俟つより外、致方はなかつた。謹爾が思いついたのは長兄覚平の助力を受ける事だった。彼は遂に意を決して長兄の渡米を促した覚平も弟の苦辛を察すると共に、直に快諾して、牛島家の親戚に当る高島熊古と、牛島家に下男として居た事のある野田彌助の二人の助力者を伴って渡米した、時は明治廿四年で謹爾が廿八歳の時であった。

千辛万苦

人手は揃った、事業は次第に進捗して、彼等の前には洋々たる大希望の実現に毎日の労苦も全く忘れ果てゝ大奮闘を続けられた、そしてスターンアィランドに二百エーカーの耕地は見事に出来上って、先づ大豆の種は下された、一方には尚お開拓の手をゆるめないで馬鈴薯の種薯は植えられた、日毎に延んで行く水々しいそれ等の作物を見るにつけ、彼等の喜びはどんなであったろう、併し皮肉な天の試練はそんな単純なものではなかった、一夜此の地方には珍らしくない大旋風が襲って来て、収穫間際の大豆は跡もなく吹き飛ばしてしまった、続いて襲って来た大洪水は苦心の結晶であった堤防を洗い流して全部の馬鈴薯は見事に奪び去られてしまったのである。是を見た謹爾は挫折すると思いの外、彼ば呵々大笑して、「是位の事はある筈だ、天は貴い教訓を与えて呉れたのだ」,と勇気は倍して此の失敗を基礎とした計画の立直しに着手して奮闘を継続した。

併し此処に襲来した大問題は生活の問題であった、前の準備の爲に全財産を蕩尽して居た彼等は、殆んど毎日の生活に窮して来たのであった、彼等六人は一片のパンによって空腹を充たす事さへ出来ない日が出て来た、其の爲に彼等は開墾の余暇を賃仕事に働かなければならない事になって来たのである。朝は四時から荒原の草原でヘトヘトになるまで過激な労働に疲れきった体を、夕方は少し早目に引き上げ、遠い白人の部落まで出かけて行き薪割りの仕事をして、与えられた幾セントかの賃銭を集めて麦の粉を買い求めて草原中の仮家の中に帰って来、団子汁を拵えて僅かに一日の命を繋いだ事も久しかった、しかしそれさへも出来ない時は南瓜の煮締のみで僅かに空腹を医した事さへあった、こんな悲境は可成り永く続いた、そして是を冷笑する白人はあっても誰一人同情の眼を向ける者はなかった。

兄弟協力して難関を打開す

来る日も来る日もこんな事が繰り返されたが、謹爾の勇気はすこしも挫けなかった、否彼は益々奮い立ったのであった、然し彼が心の苦しみは兄覚平を此処まで呼び寄せながらかかる悲惨な目に会わせる事の気の毒さであった、それで彼は遂に堪え得す、一日兄に向って「旅費は私が賃仕事して拵えるから兄さんは日本に帰って下さい、妻子を置いて来たあなたに済まないから」と云へば、覚平は「お前が成功しないうちは決して帰国しない、そんな事言わないで一緒に働こう」と云って、兄弟互に美しい草原の月に対して抱き合いつゝ泣き交した事さへあった。

かくの如くして努力した彼等の奮闘は次第に其功を奏して来て、耕地も次第に増加し、使用人も段々益して来た、謹爾が求人を故郷に云い送る毎に、次兄彌三郎は.希望者を必ず自分の手元に実地使用した成績によって送る事にして居たから、皆選良の者のみ集まって来た、それに妹婿江崎福太郎を初め多くの近親者も、渡米して彼が事業を援助する事となり、明治三十年、彼が三十四蔵の時には耕地面積三百六十エーカーに及んで、独立、経営の基礎、初めて確立し、翌三十一年には五百エーカー、三十二年には八百エ一カー、三十三年には一千三百工ーカーと級数的に次第に膨脹し、最早や部分的の災害には何等の痛痒も感じない程になって来たのである。

帰省、結婚

明治参拾二年、謹爾が三十六歳の時であるふと故郷からの音信に実母タイの病気危篤を知らせて来た、而して遂に母死去の通知に接した、彼は一二年前から帰郷の事を考えて居た彼の理想を実現したと迄は彼ば思っては居なかったが、兎も角も数十萬円の資産と、一千工ーカーの耕地とは誰か是を成功でないと云うだろう、殊に妻帯の問題もあるのである彼は今や母の死を知ると共に断然意を決して十一二年振、懐かしい郷国を訪れようと決心し明治三十三年三月、桑港発の便船で横浜に着き、東京へ行って日比氏を初め旧知の家を訪れた、そして結婚問題に就て東京番町教倉の牧師、綱島佳吉牧師に媒介の労を頼んだのであった、其の時の事情に就ては、同博士が自分で筆を執ってかいたものがあるから、これを紹介しよう。

明治三十年の春であった、丁度私も其の前年米国から帰朝し、番町教倉の牧師ごなって居た、そこえ突然牛島君が訪れて来られたのであった、或人の紹介心持って来て私に話す所が面白い「自分は今日に於て決して成功したものとは思わない、が然し米国に於ける事業に就てやゝ確信を得ている、即ちポテトーの栽培に於て漸く光明を認めて来て、現在では日本人や米人、支那人などをまぜて百人ばかり使用して居る、夫から外に馬が五十頭あるし、農場も相当広い一と云って、数葉の写真を君に見せて、さて「然るべき婦人があったら妻に迎えたいから、是非先生に媒酌の労を取って戴きたい」といわるゝのである、実は其の時が初対面であったが、見るからに快活な親切そうな立派な体格をして居るので、自分は、如何にも頼もしく感じた、眉宇の問に抜くべからざる奮闘心の現われがあつた、いろいろ調べて見ると、氏素性も正しく、何一つ欠点もないし、安田、三菱、正金の各銀行には七万円余りの預金があリ、米国にも十数万円の資産を持っている事が分った、そこで条件をきいて見ると、

(第一)、英語がよく出来て交際の上手な人、
(第二〕、クりスチャンで、素性の正しい事、
(第三)、容貌の美しい婦人、そこで自分も大に候補者を物色して、
漸く適当な人があったので、之を推薦すろ事にしたのである、

その花嫁さんが即ち今日の日女子夫人で、早大教授浮田和民博士令夫人の姉に当り、 また工学博士下村孝太郎君の令妹に当る人である牛島君ごいう人は何も構わぬ方で、結婚式の時も別段仕度などに金をかけず、質素を旨とされた、その披露式は麹町の富士見軒に於て挙行したが、当日は三好退蔵氏も出場して、大に牛島君の成功を祝し、十数年前同船した悦び談なども出て、大に感興を深くした(大正十玉年四月十五日発行、實業之日本、廿九巻の八)

前記の明治三十年は三十三年で、日女子は四女子の誤である、四女子は明治元年十月四日生れで、女下村五平、母房の第四女、父は熊本市に住んでいたが、明治十年西南の役で戦死し、其の後は兄の工学博士下村孝大郎氏に引き取られて東京に移って居たのであった、謹爾は綱島に一切を頼んだ後、郷里に帰って、亡き母の展墓やら、親戚故旧などの訪問やらに忙しい日を送って居た。結婚式の挙げられたのは八月頃であったが新郎新婦は相携わて郷里を訪れ、其の年の十月再び渡航して、桑港フルトン街一五六〇番地に初めて新らしい家庭を作つたのであつた。

彼の繁栄

彼れは事業の開係上、家庭の人ごなる事は少なく、多くは桑港を去る七十哩の東方なる、スタックトンの事務所にあって、奮闘の手を緩めなかった、其の結果事業は愈々進展して三十五年頃は耕地は既に五千工ーカーに及び、三十七年の如きは牧益実に数十萬弗を挙げ四十年には一萬工ーカーを越え、晩年には十萬エーカー、使用人員三千人という発展振りを示して居た、ボテト王と云われて来たのは此の時分からの事であった、家庭も次第に賑やかになって来て、明治三十五年には長女妙子、次に長男東豪、二男卓爾、三男麟見と一女三男が出生して事業の上にも、家庭の上にも、多分に幸運の見舞いを受けて居たが、此の間に三十七年四月、長男の出生に先立つ一ヶ月前実父の彌平が鬼籍に入り、大正二年、二男の卓爾は夭折した。彼は明治四十年、桑港湾の東岸、バークレー市のカレーヂ街二六〇番地に、豪牡な邸宅を新築して、家族を移した、三島博士は其の邸宅の有様を「別天地風記」の中に左の様に書いて居る。

園中に廬を結ぶ、環らすに薔薇、百合、牡丹等の百花を栽ゆ、 清泉有り、老松有り、茶亭有り、以て逍遙観覧するに足る、 暇には則ち曾て学舎にて学びし所の漢籍を繙きて以て楽しむ、 余之を聞いて盆々歎す云々(原文は漢文)

日米融和への努力

  

謹爾の事業が漸く順境に入った明治三十七八年頃、内地は日露戦争に、戦捷の凱歌を揚げていた時、合衆国に於ける在米邦人の頭に降りかゝって来た大問題は、彼の日本人排斥問題であった、三十九年桑港の大震災後、愈露骨になって来て、.本邦人は到る所で迫害を受ける様になり、続いて四十年一月には、在米邦人学童退学処分問題が起り、次いで、邦人の土地所有禁止法案が上提される様になり、日米の政府間で重要交書の往復が頻発せられる程の危態を繰返されで来たのであった、明治四十一年一月、謹爾は在米十萬の同胞を代表すべき在米日本人会々長に推薦せられて、此の難局に処すべき絶大の責任と抱負を以て起ったのであつた、それから、十五ヶ年間、彼は揮身の力を揮って「日米融和の爲に努力したのであった。綱島佳吉は「実業の日本」(大正十五年四月十五日発行)に.「逝けるポテト王牛島謹爾君の面影」と云う題下に、

「排日の盛んな時、在米邦人の多くは就れも消極的の態度を取り唯米人の気色を損せん事をのみ是れ虞れたのであった。然るに独り牛島君に於ては平然として「共に平等の人類である、人種的の偏見にかられて、詰らぬ感情をもつ事は宜しくない」と云って、カ州.バークレーにあるところの立派な自分の邸宅の庭へ、態々日本から取寄せた牡丹や菊を植付けて一流のコックを呼んで料理させ、さうして有力な米人を招待して日本人の爲めに盛んに気勢をあげたと云う事である」  とかいて居る、謹爾は或は沢山な宣伝ビラを拵えて、自ら自動車を運転しながら撒布して一は米人の反省を促し、一は邦人の自覚を呼び醍ましに事もあつた、或時は排日新聞を買収して、其の口を緘した事もあったそうだ、こう云う様に、感情融和の爲に奮闘した事は実に涙ぐましいものであり、又、其等の為に人知れず投じた私財は実に数十万円の巨額に上ると云われている。

彼は、其の際衆議院議員であった旧友淺野陽吉氏の「排日問題の起る原因如何」と云う質問に対して、「それは日本人がボテトーを食わぬからだ」と云って寄越したそうである、「ボテトーを食はぬ事」即ち、本邦人の同化力の不足と云う事が、此の問題の主因であると看取しだ、彼は、努めて此の方面に向って努力したのである。 スタンフオード大学名誉教授ジョルダン博士が、彼の逝去を悼んで澁沢子爵に寄せた所感の一節に左記の様なものがある、

然しながら此等の事(註、開拓事業を指す)より重要なるは君の人格である、君は多年加州に於ける最も信用あり、且つ、尊敬せられた実業家の一人であった、氏は十五ヶ年間在米日本人会々長として活動したが、附近の日本人間に於けると同様に米国人間にも中々勢力があった君は事業に関する契約に就ては證書を用いなかったけれども、決して其の信用を毀損する事がなかったといはれでいる、君は主として独学、自習によったが、多方面の事に精通して居た、君はその子女には米国の大学教育を与え、そして日本人は米国生活に於ける善良なる方面には必ず同化し得るものなる事を、身を以って範を示したのであった、 と云っている、米国人の見たる彼の美点は実に其の同化力の豊かな事であったと共に彼の着眼も実にこゝにあったのである、日米融和の為には彼は実に「無冠の大使」として、目醒ましい活躍をしたのであつた。

「(前略)広大なる耕地を経営し其の産する所の馬鈴薯は同地方の市場を左右するの勢力を有し内外人間に馬鈴薯王を以て称せらるゝに至れり、同人が斯くの如く天涯万里の異郷に於て、独力空拳、未開の曠野に向って敢然鍬起の大業を試み、克く其の功を牧めたるの挙は頗る我民心を作興し、海外発展の機運を刺激せること云うを俟たず、且、同人は克く愛国の本義を重んじ、多年私財を投じて、在米本邦人の教育其他公共利益の爲め尽瘁し、或は日本人会々長として日米両国人の融和に力を致せること少からず 下略)とは外務省通商局で調査した彼れの略歴中の一節である、こんな理由であろう、大正四年十一月、彼れは勲五等に叙せられた。

終  焉

明治二十二年十二月、謹爾が故国を離れて、大正十五年までの三十五ヶ年間、郷国を訪れたのは、明治三十三年の只一度であった、今や業は成り名は遂げて、彼も既に六十三歳の老境に足を踏み込んでいる、米国の空で生れた子女等は、まだ見ぬ郷国の風景に憧れている、彼れは幾度か全部の家族と提げて故国の景情に接し、旧師旧友を訪れて、数十年来張りつめた魂を、少年の心に帰したら、と思って居た。

併し、暇令それが教ヶ月か一年位の間であったとしても、愈盛んになった彼の事業の上に彼が不在と云う事は、其の伸展上、必ず差支が出来るに相違なかった、併し彼は愈意を決した、殊に長兄覚平は大正十四年に逝去して居るので、其の墓参もしたし、其他公私の用向もあり、大正十五年三月十六日、桑港解纜の春洋丸で愈故国の春を訪るべぐ、各方面に向って発表した。(上略)三月十六日出発、殆んど相違なきよう也、尤も出発に電信公式に報告致すべく候、今回は久敷振故に、各地方の人に迷惑を掛けることを恐れる位に御座候(下略) とは、三月三日附にて彼の甥牛島覚氏に宛てた紙面の一節であり、  愈々来る十六日、春洋丸にて上船、帰心如矢とは此事を云う也と夜も寝らざる程の楽に候(下略)

とは林田旧師に宛てた、三月五日附のものである。 而して彼は九日、桑港から四百哩の南方ロスアンゼルス市に行かねばならない用件が起って、其の夜出発、十日朝予ての定宿であるアレキサンダー・ホテルに着いた、其の地の或会社との間の地件の問題で、要談を果して寝に就いた時、時計の針は既に午前一時を廻っていた。

安原と云う秘書は早朝、彼の寝室を訪れて、尋常ならざる容態に驚き忽ちホテル中の大騒ぎとなった、彼は脳溢血を起して、最早人事不省に陥っていたのであった、そしてやがて同市のハリウッド病院に移された、パークレーの自宅や、スタックトンの事務所などでの驚きは非常なものであった、「汽車はなまぬるい」と云って皆自動車で四百哩を突破した、牛島彌の自動車が超スピードで走って居た時の事である、制限外の速力を嚴しく云う合衆国の事で、警官は直に手を挙げて停車を命じた、同人は事情を話して、電報を見せた、警官は「お、ポテト王が病気か、宜しい、では急ぎ給へ」と超スピードを許可した。然もそれが山間の一小都会での出来事であったそうである。.

そして儚い二週間余の日は過ぎて、二十七日午前五時、絶命した、此の日、彼は特別の恩命に浴して勲四等に叙せられ、旭日小綬章を授けられた、遺骸は茶毘に附してパニクレーの自宅に送られて告別式が営まれ、四月には桑港で在米日本人会主催の盛大な追悼会が行はれ、サンマテ一ルの高台の上、太平洋を見下して、渋沢子爵の揮毫に成る」「牛島謹爾君之碑」が、日本人会の手に依って建てられ、越えて五月、東京では、渋沢子爵其他を主催とする盛んな追悼会が挙行せられたのである。

遺された雄図

謹爾は生前既に加州の中のデルタ(沖積地)四十哩四方の中、手を着けた所だけは殆んど開拓し尽したのであった、併し彼には尚お大なる企業慾があった、それには、朝鮮があったオレゴン州があった、メキシコがあった、それ等の地方の開拓計画は、不幸にして色々な錯綜した事情の爲に、生前翼を伸ばす事は出来なかったけれども、其の昇天の意気は実に敬服の外はないのである、明治廿四年、彼れが僅かに身を以て,・ニユーホーブ村に辿りついた時から、逝去するまでの四十年近く苦楽を共にした腹心の親友で、現在は東京で静かに余生を送って居る、渡邊金三氏の書翰の一節に云く

(上略)猶、朝鮮計書は明治三十七年六月、私態々米国から来り三十八年四月迄、鴨緑江を除きたる半島の五大河流域を悉く踏査致候、其調査中、故岡部長職子が貴族院を代表して渡鮮中なるに出遭い、同子の熱心なる勧誘と斡旋とにより、李王と牛島と共同にて、朝鮮開拓の提案が李王側近の者より申出され"王は当時朝鮮にて屯土と称せし王室未墾地全部を提供し、牛島は資本ご熟練とを提供して、双方平等にて経営の任に当る相談を京城の王宮に於て、私と岡部子と李王の重臣との間に話合いし事も有之、当時の事一筆にては説朋申上兼候(下略)

是で朝鮮経営の概要は覗われるが、明治三十七八年の頃と云えば日露戦役の最中である、韓国併合に先立つ六年前である、又メキシコ経営計画に就て、同氏は

メキシコ計画は一九一〇〜一九一五、足かけ六年、私は全墨国七十六萬方哩の三分の二位踏査致候、是又簡短に申上ても、誰れでも諒解相成兼ぬる問題にて、此等の事皆思立ち精査し或は起業候計に至りしものも悉ぐ成功せざりしものに付、唯単に着想丈けに候、併し故牛島氏のメキシコに成就せんと志せし事は、日墨両国民の共存共営を目的とし、模範的植民事業を日墨両国民の眼前に建設展開し、以て日本民族の進路を拓かんとするに有之候(下略)

今一つオレゴン州の経営がある、経営地は、桑港から北七百七十哩ポートラン河を遡る事百二十哩、それから二百哩を南下したシユラネパタ山脈の山岳部に位する、七萬五千エーカー(価格二百萬弗)の地であった、本部からは甥の彌(彌三郎氏長男)を主任とし、労働者は皆、米人を雇い入れる事にして愈着手し、先づ既開墾地の四百エーカーに三萬弗の種薯を購入して下種した。

然し何分にも北緯四十七八度位の所で、凛烈たる寒風は身を切る様な山間で、ストーブを要しないのは漸く七八の二ヶ月間であるという程の地で、試作した種薯も全部役に立たなかった、加うるに、「此の農園の大量生産が成功すれば地方の小農経営者は其の生活を脅かされる」と云う感情から、非常な米人の迫害が起って来て、赤裸々な妨害を加へるようになったから、経営二ケ年で遂に此の全部を放棄した、それは実に大正十三年頃の事である。

彼の純情

謹爾の精神は漢学を以て鍛練しで居るから、彼れが忠孝の念篤かったのは、云うまでもない、大正十四年、彼は勲五等に叙せられた時の詩に云く、

大正乙卯季秋、皇上登極、.在外微臣謹爾、恭賜動五等旭日双光章、感激之余、 詩以紀恩金章燦爛輝身辺、遠浴恩波異域天、欲告光栄親不在、悲歓交到涙潜然

此の時彼れには双親既に亡し、謹爾が忠孝の至情は彼が青年の頃から、多く詠んでいる、 今其の一,二の例をあぐれば 

   聞車駕巡狩北海道  維昔蝦夷地、蒙昧不可名、忽逢龍躍日、初聴鳳車声、已信存神妙、 又欽過化栄、佩鳴鯨浪穏、鈴響昇旗迎、 甘露盈盈満、 祥雲簇簇生。 微臣聞盛事、瞻望祝昇平、

右は彼が江碕塾に居た頃の作である、そして渡米後も、常に其精紳を忘れなかつた、

 罷在日本人会々長有此二作茲引予長干在米日本人会十二年、 内治外交、憂患荐臻、今退其職有欣賀 自不堪者、茲月余、再射選爲会長、慙愧曷巳、  憂人家国奈斯身、多難関心十二春、半白鬢毛応再黒、今朝纔作自由民。  辞来公事避粉華、身住白頭山下家、世上毀誉何足間、功名擲去付煙霞。  (上略)先頃来二通電文父病気のよし相来る、曰く、其病気は中気也と、何の故に 老人にも非ずして老病にかゝるとは駭入申候、何れとも十分保養に相成度、 十分子たる義務を頼度祈候(下略)

又  (上略)時下父の事など思い出されて、いかに淋しく御暮し相成候事と御憐察申上候、 孰とも跡に残りしは十分身 体保養に相成度候、明 十四日須市仏教会に於て兄上 四十九日御経あげる積に候(下略) 右の二通は彼が事業を初めた当時奮然故郷に妻子を残して人跡未踏の曠野の中に彼と共に、苦闘した実兄覚平の発病の通知を受けた時と其死後に於て嗣子畳氏へ宛てた慰問状である、明治四十年頃は、既に三越の重位にあった旧友日比翁助が、視察を兼ねて謹爾の農園を訪ねた時、  

雲水馳情幾度春、何図異境訂前因、同心如故面容改、相見翻疑非故人。

謹爾は盛んな歓迎会を大農園中に開き、余興に相撲大会など催したそうである。
澁沢子爵は屡々渡航して、謹爾の邸を訪れて居た、

義利和調教阜財、欽君経世済時才、青渕夫子過人処、事業都従魯論来。

是は大正四年、子の往訪の時の歓迎の詩である。

一去郷関四十年、異邦早巳令名伝、欽君独闢別天地、事業風流兼得専。

澁沢子爵は「別天詩稿」の出版に当って、右の詩を贈っている。  大正六年、石井大使と共にヨセミテ公園に遊んだ時の作詩六首の一に云く

耶馬漢山豈足云、奇峯乱立欲衝雲、世間唯少頼翁筆、.知此風光未上文。

「別天地園」の命名者である、旧師三島毅博士の訃を聞いて、  

予去春呈先生以梨千酒、先生賜詩日、曾附山塾講経綸、桃李満開今正新、 更有梨花花似雪、別乾坤  裏醸芳醇、今攀玉礎、遙寄哀意、 曾陪松不学経綸、梁未巳摧双涙新、隔絶天涯転添恨、招魂聊且薦清醇、

彼は、又、子に対して熱愛の情が溢れて居た、其の二男を喪った時、

大正甲寅元旦、去年喪次子、詩中及故、 忍見庭梅門柳新、聴鴬底事涙沽心、団楽倶酌屠蘇酒、取次  伝杯少一人。 一自亭珠玉摧、春風春雨恨難裁、九泉路隔何時返、不似園花落復開、

然し氏は只徒らに感傷的な過去の追憶にのみふける者ではなかった。

望 蜀

   

数年来、我事業不振、入春奮起有改更革、而規画中肯綮、獲利不少、知友交説予曰、今也功成名遂、須退隠楽風月、而有予意未厭、示  以此詩、   垂綸蘆白水青中、溌溌鮮魚満竹篭、惟為雄心猶未厭、擬臨絶壑獲羆熊

是が小学教科書(高等修身巻一、第十二課)に出て居る、{謹爾が巨富を作った後、錦をきて故郷に隠退することを勧める人もあったが「 それはびく一ぱいに小魚を釣って満足するようなものだ、自分は願わくば幽谷の熊を捕えたい」と言って従わなかった」の原文である。

謹爾は旧師旧友に対して非常に篤い情誼があった、左の一文は旧師林田氏が長寿の宴を催した時、彼が寄越した紙面である。

謹啓、愈愈御清福奉賀候、今年秋は先生七十長寿筵御開被遊候よし、拙詩被徴候処、性来詩は最拙なるも、四十年前、十二軒屋に於而、原古賀小学校に於て、先生に学びし算数の事を思出し、一首を作申候、他一首は単に先生菊の如く松の如く、御長寿を祈る位の外別に好意趣を案出せず候、御 笑納是祈   奉賀林田先生古希 予幼時就先生学算数 牙籌一握亦経綸、弁拆錙銖明以神、打算翻看自然妙、優遊好作古稀人。何唯仙骨出風塵、双眼看他爛射 人、晩節期来秋菊好、歳寒更擬燗松新。          大正九年八月在米加州牛島謹爾初稿

又左記は彼が死去二十二日前に認め、林田氏に贈った書面である。

林田先生     三月五日謹爾生

愈来十六日、春洋丸にて上船、帰心如矢とは此事を云也と、夜も寝らざる程の楽に候、先生所謂池葛蕈 公所書之寛平小御宴尋存無の詩は、明善堂書生に示せるものに非ざるなきを得んや、其の時事情を我 先生より拝承致度候他久留米文学の事等一々拝承致度楽居候(下略) 謹爾は、こんな手紙を常に寄越して老師の心を慰めて居たのみでなく、師の病気と聞いては見舞の金も送って居た、自分の果樹園で出来たネープルニ箱を届ける事は毎年の例であつた。 彼は江碕旧師に対しても同様であった、珍らしいと思う物は逃さず届けて居た、大正の初め頃までは内地ではまだゴム靴は見られなかつた、彼は態々一足を老師のもとに送って来た、当時、明善中学校で教鞭を執って居た江碕氏は是を職員生徒の前に誇って居た事もあつた。 (上略)回憶往事、某茫如夢、今則在北米加州、從事墾開、孜孜惟日不足、転瞬之問、乍値先生之辰、而道之云遠、不得往賀、遺憾曷已、独試閉目想像賀宴之状、則先生尊貌、髣髴眼前、白髪如銀、才気 横溢於眉宇之間、循循如有所教、若果以我今日事業請先生評、則先生猶批以爲優孟衣冠不足取乎、將爲面目一新出色事業、以施批圏加褒辞、猶於嚢昔文章乎、際此嘉辰、萬里之外、慕先生之情、油然而生、安得卜花纔落、鳥猶歌之候、一駕・軽球、横太平洋、抵久留米、伺候先生之門、与往年従遊諸子挙巨解、歌天 保章、以壽先生乎是不独爲先生賀、並爲天下育英賀之也、其爲天下育英賀之、則所以大爲我先生賀之也 、若夫南山之高、以頒先生之徳、松柏之茂、以祝子孫穣穣福禄無窮者、有諸子在、予復何贅

右は大正十年、江碕氏、喜壽宴の当時、合衆国から謹爾が送った祝文の末節である、如何に旧師に封する報謝の念の切々たるかを覗はれるものである。

小詩栽罷不堪吟、満目蕭条感転深、天外路遙無一字、虫声雁語亦関心

是は江碕氏の病気見舞の爲に寄せたものである。旧友淺野氏が代議士時代、顔中一杯の髭を延ばして居た、,謹爾が帰国して氏を訪うた時、「君は大変な髭だな、今米国では立て髭は流行らないよ」ご云う、氏は「延ばすと云う訳ぢやないが、生えるから仕方がないさ」と答えたら、「それぢや、僕が米国に帰ったら好い剃刀を送るから剃り給へ」。

こんな会話が交されて、`何ヶ月か立った後、氏の家に一個の外国小包が届けられた、不審に思って見たら、氏が全く忘れて居た約束の剃刀、然も非常に立派なものが革砥と共に送られたのであった、民は初めて思い出した、そして自分も約束を履行して、以後髭を立てる事を止めたさうだ。

彼が純情は情誼の旧師に厚かったばかりでなく、天外万里の旧友にも同様で、自作のオレンヂや葡萄酒等を浅野氏等へも贈って居つた。

嗜好及び性行

彼が「別天詩集」を見ると、前編ご後編とに別れて、前編には内地にあった時の作のみで、後編には「航米後所作」と註してある、そして其の後編の第一に出て居るのが「桑港震災」の一首である、

地震火焼看幻塵、彼蒼何事苦斯民、瓊棲瑤閣摧残尽、  忍見金門劫後春。

尚題の下に「和桑港領事上野君韻、金門即桑港」と云う註が入っている、桑港大震災は西紀一九〇六年明治三十九年四月に起っているから、渡航後、.千辛万苦の際十七八年間は作詩の事を見当らない、彼は人から其の理想を聞かれた時、「詩を作り田を作る」と答えていたそうである。

彼は将棋が好きであった、上手ではなかったが、挑まるれば敢て辞せない、勝てば甚だ得意になるが、負けたら胸中甚穏かならず黙ってコソコソ帰って居たそうだ、彼が子供の時から大好きな相撲は、矢張り晩年まで続いた。 

彼は人の話は何でも反抗しない丈けの度量があった、余り長談義で、さして必要でもなさそうな時は非常に静かに傾聴していると思っていると思いの外、時々大きな鼾の声が聞こえたそうだ。

酒も好まない煙草も吹かさない花物が好きであった、然も赤い花が一番好きであった、

君の承知の我家の紅桃は今や將に花一面に咲いている、其の美観何ごも云うかたなし,君が家にも紅桃桜を植付けられ度祈居候

とは甥の牛島覚氏に宛た、帰国通知の紙面の一節である、赤は花に限らず、床置から絨毯まで真紅のものを用いていた。彼ばすべての物を空費が嫌いであった、汽車や電車に乗る時でも、大概動き出してから駈はつけていた、紙面などは大抵汽車の中で書いて居た、就褥後、、子供の部屋から電燈の光など洩れて居たら、自分でスイッチを切り、翌朝「物を粗末にずる人は駄目だ」といって説諭していた。

彼を頼って、仕事口など相談に來た者がある時は、彼は自分で会って、頭から足の爪先まで見下す事が二回、炯々たる彼の眼光で、この首実験には大てい参っていたそうだ、そして気に喰わぬ所があれば、諄々として、其の欠点を論していたそうだ、最も嫌いが身分不相応の華美華であった。

彼れは一見むっつり屋ではあったが、其の心の底には涙弱い温かい所もあった。一日其の養父(と云っても名義ばかりであった)が眼病で苦しんで居ると云う通知を受けた、彼は八女郡北河内から三里の山路を急ぎ帰郷して病父を遠く日向の生目八幡宮へ、或は手を引き背に負いながら参詣させた事もあつた。`

彼には一面無邪気な滑稽味もあった、彼が八女郡に居った頃、恩師樋口氏の詩集を求めたい久しい望みを抱いて居たが、実父ば何故か其代価五十銭を与えなかった、一日彼は帰郷の時「私は今帰り途で五十銭銀貨を路で見出した、是を拾ったら樋口先生の詩集も買えるが、とは思ったが、予てのお父さんの御教訓を思い出して其の侭にして帰って来ました」と意味あり気に話した、父親も其の意を覚って、「正直の賞」だと云って、笑いながら五十銭を与えた事もあった。

家系

牛島家の家系下の如し

牛島家の家系

略 年 譜

同十四年(十八歳) 同郡北河内村北(シ内)義塾へ転学。
同十八年(廿二議)東京遊学、二松学含に学ぶ。
同二十年(廿四歳)廃学して帰郷。
同廿一年(廿五巌)十二月八日横浜解纜、米國に向う。
同廿三年(廿七歳)カルホルニヤ州ニユーホーポ村にて、初めて十五ユーカーの 馬鈴薯自作を試む。
同廿四年(廿八蔵)デルタ(沖積地)の開懇を初む、長兄覚平渡航す。
事業順調、十二月実母タイ死亡。 同三十一年(三十五歳)事業着々進捗し耕地五百エーカー同三十二年(三十六蔵)
同三十三年(三十七歳)三月帰省、八月四女子を娶る、十月再渡航、桑港フルトン街に 居を定む。
同三十五年(三十九蔵)四月長女妙子出生、事業進捗、耕地五千エーカー。
同三十七年(四十一歳)四月実父彌平死亡、五月長男東豪出生、六月朝鮮調査に 着手、事業牧収益数十万弗。
同三十九年(四十三歳)四月、桑港大震災、此頃より排日熾烈、十一月二男卓爾出生。
同四十年(四十四歳)一月在米邦人学童排斥起る、バークレー、カレーヂ街に新築移転。
同四十一年(四十五歳)一月在米日本人会々長に推さる(臨終まで継続)、六月三男麟児出生。
同四十三年(四十七歳)メキシコ調査に着手、五月二男卓爾死亡。
大正四年(五十二歳)十一月勲五等に叙せらる、爾後事業愈々発展、耕地十万エーカー
使用人三千。
同十三年(六十一歳)オレゴン州の経営をはじむ。
同十五年(六十三歳)三月十一日ロスアンゼルス市にて発病、同二十七日同市 ハリウッド病院にて逝去、
同日勲四等に叙せらる、桑港郊外サンマテールに葬る 四月桑港にて日本人会の
大追悼会、五月東京にて大追悼会挙行された。
昭和五年(死後五年)国定高等小学校修身書巻一に掲載さる。

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