白鳳2年(674)、天武天皇の勅願寺として創立され、和銅元年(708)、行基菩薩が西下し、翌年、七堂伽藍を造営、元明天皇より「観音寺」の勅号を賜った。本尊は十一面観音を内蔵した聖観音である。和銅6年(713)の境内地は八町四方で、七五町の寺田と十三の末寺をもっていた。
近年、境内より九ヶ所の経塚が発掘され中でも天永三年(1112)の華麗な銅製経筒には、埋蔵紙本写経として「法華経全巻」が揃った日本最古の経文が内蔵されていた。なお写経では高麗版の「橡染紙銀字大般若経」、伝菅公筆の「紺紙金泥書経文」など、未指定調査中の文化財も多く、鎌倉初の木造毘沙門天立像(県文化財)や中国元代の絹本着色「羅漢渡海図」のほか、ミイラになった怪物「牛鬼の手」なども秘蔵されている。
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