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国分寺の礎石と山王さん(日吉神社) | ||
山王(さんのん)さんちゃ初手は西からの入口の方は竹藪じゃったもんの。そっであすこん にきに有った木は、ずーっと下枝のこちゃつかんで、伸びとろがの。いまの下枝は藪ば開い た後に伸(の)んどっとが多かもん。その竹藪、入り口から北の方たい、その藪ん中に大っか 国分寺の礎石の元厄ん態(なり)にちゃーんと並うでありょったげなたい。 そりば明治の末頃じゃっつろか、ようと覚えんばってん、村から炊き出しどんして、藪開い て山王さんの境内ば広うなしたときに、いらんこつにぼじくり出して、後にや川原に高良川 の橋んかけかえのある時、橋の脚の穴てろち云うて、小まか穴てん、ちっと太か穴てん、ほ げてあったげなたい。 そりから大正六年頃じゃろか黒板博士てん偉らか学者さん達の、国分寺の跡ば調べに見えた けん、あたで、おろたえて山王さんの境内さん又持って来て、神殿の北の方の端の方にゴロ ゴロ置いてありよったたい。近頃はそりば手洗鉢にしたり記念碑の台座にしたりしてあるげ な。初手んとこにゃいっちょ残っとるばってん、いっちょん動いちゃおらんもんじゃり、動 かしたもんじゃり、みんながっせ、そんなりしときゃよかもんに、その頃ん村のお偉方があ んまり頭がそげな方面のこつ知らじゃっつろたい。 国分寺はいつ頃のうなったか、ようわからんげなたい。破瓦の山王さんの境内てん、あす このにきの道てん藪てん、西村のにきによう落ちとっとば見掛けよった。 大正頃上津荒木小学校の小川校長さんが、二軒茶屋の山あたりで、国分寺の瓦焼窯跡ば発見 しなさったち話じやったが、二、三年前清水の西の馬場ん田の田の中で、窯跡ん出て来たげ な。発見者は古賀の幸雄さんげなたい。あのすぐ北側ば流れとる小まか川の底に、ほーんに 破れ瓦のありよったが、そっでじゃったじゃろたいの。 山王(さんのん)さんの神殿なあたしどんが小まか頃藁葺から瓦葺になったつげな、あたし ゃおおかた高皇宮で遊びよったけん、とーきにしか山王さんにゃ行かじゃったもんじゃけん 屋根変えのこつは、よう憶えとらんたい。ばってん、神殿と拝殿との間に深か三尺ばっかり の溝の南北にあって、その溝ば飛び越えたりして、遊うだこつはよう憶えとるいつ頃じゃり、 その溝はうまってしもた。 山王さんなくさい、ほんに悪さ坊主じゃったげな。いつか桃の木に登って遊びござったり ゃ落てて、麻の葉で目ば突いて、片目にならっしゃったげな。そっで国分にゃ麻と桃の出来 (け)がようなかつげなたい。よその村じゃ芋植えたあとの芋床にどん麻植えてありょったば ってん、国分にゃ出けん悪かけんち植えてありよらじゃったたい。 山王さんのお使番なお猿げな。"山王さんの柿の木に猿が三匹とーまって"てんち云う歌の あったたい。初手うちから化物のごつ大っか提灯ば一対奉納しとったつも、お猿がぐじぐじ 何匹でん遊びよる絵じゃった。あの提灯などこか損(そ)ぜたてろち云うて、破って捨てたて ろち。国分が二派に分れて喧嘩しよった頃のこったい。あの頃は何でん両方からそげな風じ ゃったもんの、ほんに人間どんのするこっちゃのー。お神こそ、ええ迷惑しとんなさっつろ たい。 山王さんの拝殿の前に井戸の在りよったたい。その井戸じゃったじゃり、ほかんとこじゃ ったじゃり、よう分らんばってん、あすこんにきに突き抜き井戸堀って噴水のごつ水ば出す ち云うて堀ったこつんあったたい。あたしどんがまあだ小まかときじゃけん。見げ行ったり ゃ、竹ば地台(ぢで)に突きさしてあるもん、その竹ば「さあ、切るぞ、噴水の出るぞ」ち云 うて切らっしゃったばってん、水はいっちょん出らんもん。あとから竹ば覗いて見たりゃ、 竹のひと節ばっかり下まで水の来とった。 もちっと下から切ったなら、出とっとじゃうにち子供心に思うたたい。高良山からごうほん 離れとるもん、地下水のどげんどんなっとるもんじゃり分らんたい。 ばばさんのお里の丹ニョムさんの水の出らじゃったつと同じこつどんじゃっつろたい。 |