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初代佐太夫 | ||
真藤ちゃ、もとは筑前福岡の黒田藩の馬術師範役の、真藤佐左衛門さんの二男佐太夫さんが、 亨保十六年久留米の殿様(頼僮大慈公)のお馬の師範役として、召抱えられて、格は馬廻り組 じゃったげな。そりが久留米の真藤の始まりたい。諱は泰知ち云いなさるたい。屋敷ゃ、十間 屋敷ち云うていまの日吉町に頂いとんなさったげな。 初代ゃ安永三年四月に七十一オでおかくれたげな。奥さんでなしにお世話やき(博多豊後屋 の娘)じゃったげな。二十八才で久留米にお入ったけん、福岡でお部屋住みのころ貰うとんな さったけん、お世話やきじゃったつたい。この女(ひと)は左大夫さんのおかくれたのち、実 子もなし、二代目に跡目のご沙汰のなかったけんでもあっつろ、福岡から分けて頂いて来てあっ た色々な物のうち、良か物だけ待ってまた本家の方さん帰ったげな。 佐太夫さんの長裃と、二代佐太夫さんの子供のとき召し出されなさったとき着なさったらし か子供用の裃ち、納してあったつの、二つともあられ模様の水色麻裃じゃったが、ほんに小ま かもん。それに初代の差料じゃったち思わるゝ刀の調べ書のあったが、刀の長さのみんな割合 い短かったけん、背の小さかったじゃろち云よったりゃ、千栄寺のお墓改葬の時、お棺の瓶の 出て来たが、かめも小まかった。こっで入っつろかち思う位小まかった。かめの中にゃ、底ん 方に水の少し入っとって、一つまみばかり土のごたっとの入っとったけん、壷にそりば入れて 寄せ墓さん入れたたい。 仕えた初任給は月俸二十人口じゃったげな。(一人口は月に一斗六升年一石九斗二升、二十 人口は、年に三十八石四斗、三斗三升俵で百十六俵一斗二升、石取に直せば百十六石と一斗二 升相当)。そののち身分も上って、馬廻り組頭格じゃったち、半井さんからチラッと聞いたこ つのあるし、刀の調べ書に「出世候頃求めの由」ち書いてあるけん、いつか身分のあがったこ つは、たしかじゃろうが、倉富の啓しゃんな三百石じゃったそうなち云いなさったばってん、 其時分新参でそげん頂だくちゃ考へられんたい。 うちにそげな記録は残っちやおらんし、古るか書き付けは長持のまま売ったり、殿様のお墨付 きてん、拝領物ち云うギヤマンのお徳利の箱に入ったつてん、みんなこれまた差押えられて、 長持入ったまま、失うなって仕舞うたし、あたしがようと見らんなりでさっぱりわからんごつ なった。もとの家の二階にも何やら上っとったばってん、こりまた火事で焼けて仕舞うて、旧 藩の書き付けのなかに、残ってばしおらんかぎり、もう判らんこつたい。 お子さんのなかけん、もと御典医じゃった半井(なからい)のお子さんで、お城内の馬廻組 で、お側物頭てん勤めとんなさった小河兵右衛門さんの甥御で厄介(やくけ)の半井佐衛喜さ んばご養子貰いなさって、二代目の佐太夫さんになんなさったったい。その佐太夫さんが幾つ かになって、初めて殿様からお召出しになったげなけんち、福岡の本家からお祝に塩鯛てん何 てん、送って来た時の手紙ゃ、私も読うだこつのあるけん知っとるたい。 |