腹切岩


恵利内蔵助夫婦殉節之碑  
腹切岩(手前)

 天正15年(1587)3月、豊臣秀吉は九州平定の途につきます。(第1・2軍は一月に出陣)秋月種実は島津義久と同盟し、秀吉の軍を迎え撃ちしますが、北九州随一の堅城を誇った岩石城をわずか一日の戦いで攻め落とされて降伏します それまで筑前・筑後・豊前の3か国11郡36万石余を誇っていた旧領を失い、わずかにその10分の1以下の日向財部(たからべ)(高鍋)3万石に移されました。 これより先、秋月の重臣の一人、利内蔵助暢堯(えりくらのすけのぶたか)は、秀吉勢は強大で秋月勢の到底抗しきれるものでないことを悟り、種実に和を結ぶことを進言しますが、理解を得られず、かえって怒りを買い、ついには自刃するという悲劇に終わりました。《天正15年(1587)3月14日 享年38歳》
 秋月・鳴渡観音の50メートルほど手前、小道の右手の路傍に3個の巨岩があります。
  一番北側の岩の上で切腹したと伝えられ、通称“はらきりいわ”と呼ばれています。


   鳴門観音堂


黒田長興が恵利内蔵助のために建立をした
  音声寺に建つ鳴渡観音堂

 黒田長興が秋月に入封に当たり、その忠節に当たり、その忠節に感じ入って建てたものです。また、殉節碑が昭和11年5月に暢堯ゆかりの人々によって建立された。

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