垂祐神社 |
長元、藩祖を祭神にし永く奉紀せんとして、其神霊神号を京都吉田家に願出るやう、宮☆垂裕神杜 安政六年、秋月藩祖東陽院殿(黒田長興)二百年祭取越挙行の際、藩主黒田永保親に内命し、吉田家の認可を得。 ☆垂裕神杜(県杜)(大字野鳥字館尾) |
秋月八幡宮 |
秋月八幡宮は社記に寄れば、天慶6年大蔵春海実が神宮皇后の故事に因んで、その遺跡の地に祭季祀したものであると伝えられる。
秋月種実は秋月を居所にするに及んで社殿を造営して篤く崇敬した。また一帯は小高い丘にあったので、その家臣である坂田氏を代々の居城となった。
秋月氏の時代、社運も盛んであったが秋月氏が日向に移封されると次第に衰え社殿も荒廃したという。
後に黒田長興秋月藩主になると新たに社殿を造営し、その地の産主神として崇敬され、今日に至っている。
◎秋月八幡宮は、秋月及上秋月の産霊なり。神殿は上秋月村の高き岡の上にあり。此山、秋月氏の時、其家臣坂田氏代々の居城成しとかや。高き石階を登て御社に至る。祭る所の神三座、中座に八幡大神、東座は住吉大明神、西座は武内大臣、宮立は南に向へり。後深草院、宝治年中初て此所に祭ると云。末社二区あり。左の末社は天照大神、右の末社は豊受大神也。又橋より東の一社松尾明神、同東の一社砥園を祭る。社前に石の鳥居及御池あり。橋あり。九月十五日祭礼を執行ふ。此時、神輿御旅所に御幸あり。神楽所は中道にあり。又此日、拝殿の前にて猿楽あり。但隔年に是を取行ふ。いにしへは流鏑馬有しが、今はなし。六月晦日、夏越の祓あり。其敷地の内に生れし人、鎮祭とて同二十七目より斎戒して、身心をきよめ静にして、此杜に参詣す。神領十石、邑君より寄進し玉ふ。秋月の里も此神の敷地なれぱ、士民其産子にレて、領主を始め諸人皆尊仰す、(続風)
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