平塚川添遺跡の位置

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全景    前方は甘木


平塚川添遺跡は、福岡県甘木市大字平塚字川添及び公役に所在する。

甘木市は、福岡県のほぼ中央に位置しており・筑前から豊後へ通ずる街道と肥前・筑後から豊前へ抜ける道が交差する交通の要衝として古くから栄えてきれ地形は、古処山・籾嶽・烏屋山等の600〜900m級の山を剣とした山塊が大部分を占め、筑後川の支流である三河川(西か ら小石原川・佐田川・荷原川)によつて、谷底平野と沖積平野が形成されている。また、三河川によって挾まれた地帯は標高20〜30mの洪積世扇状地であり、浸食を受け台地化し・舌状を呈して南面している。そして、南部は筑後川の沖積平野が広がる。

平塚川添遺跡は、小石原川水系の伏流水が湧水となって微高地を縫いながら南流する二又川.天神川に挟まれた微高地に立地するが、本来は小石原川の氾濫原であり、すぐ東の福田台地に比べて4m程おちた標高20m前後の低湿地である。地図上で見ると平塚川添遺跡及び隣接する平塚山の上遺跡は、台地西端の各遺跡と密接して存在していることがわかる。

洪積世扇状台地は、農耕を主業とした生活基盤となりやすく、朝倉地方のみならず一般的に弥生時代以降の遺跡が集中する傾向にある。小石原川と佐田川に挟まれた福田台地でも、佐田川と荷原川に挾まれた金川台地とともに、多くの出土遺物が発見され、近年の発掘調査においても数々の遺跡遺構が確認されてきた。

福田台地は、東西南面に肥沃な沖積平野が広がり、東及び西端は段丘状を呈しているが、南端は伏流水による浸食を受けて、東西が分断される形で緩やかに傾斜している。台地西端部には、北から一ツ木下原遺跡・一ツ木遺跡・平塚大願寺遺跡・平塚栗山遺跡・やや奥まった位置に平塚小田道遺跡と弥生時代中期から古墳時代前期にかけての集落跡が点在する。また、この地帯は墓地としての色彩が強く、前漢鏡.鉄戈.貝釧等の出土した平塚栗山の甕棺墓群の他に平塚二塚の箱式石棺、平塚大願寺の方形周溝墓.土墳墓群等が、平塚川添・山の上遺跡の直上に展開している。栗山及び大願寺では三角縁神獣鏡、中寒水遺跡では中国式有節柄銅剣の出土記録ものこる。南端部は、小隈宝満から小隈出口・小隈夏山松山・神蔵遺跡にかけて弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴住居跡が確認されており、背後に箱式石棺墓を中心とした墓地群が点在する。

またこの地帯は・三角縁神獣鏡を出土した神蔵古墳・茶臼塚古墳といった前方後円墳も存在する。最後に台地の東端部では・弥生時代前期から後期まで断続的に集落が営まれたと思われる小田集落遺跡とその周辺には甕棺墓が所在する。この北には・弥生時代後期を中心とした環濠集落である屋永西原遺跡があり、小田茶臼塚遺跡・台地西端の中寒水屋敷遺跡や平塚垣添遺跡からは大規模な溝状遺構が確認されている。

このように、福田台地に群在する弥生時代から古墳時代にかけての遺跡は、質量ともにすぐれており、同時代を知る上での貴重な資料となっている。また、平塚川添遺跡から小石原川を越えた西にも洪積台地があり、中央部は旧陸軍太刀洗飛行場によって削平を受けているものの、上原遺跡・上川原甕棺墓群.立野宮原遺跡等の調査によって・縄文時代早期から奈良・平安時代にかけての集落の存在が確認されている。このことから・水田農耕文化の発達あるいは台地間の関係について、平塚川添遺跡の立地は興味深い問題を提起してしいる。





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