物資輸送の大動脈

 
 江戸時代は日田天領(幕府が直接に支配していた領地)の年貢米を送るため、いかだと帆かけ舟で筑後川をくだり長崎の港まで運んでいました。このことは、鉄道や自動車輸送などの陸上交通が発達する昭和のはじめごろまで続きました。このように、舟運の大動脈として筑後川流域のいろいろな産物を運ぶために大へん役立っていました。
 潮と風をたくみに利用した帆かけ舟は、行きは流れにのって下り、帰りは帆をはって上っていました。そのほか久留米の水天宮まいり(瀬の下まいり)にも利用されていました。
 特に、日田地方からの筏流しもさかんなものでした。雨の降る日の山田堰を下る筏のようすはほんとうに見事なものでした。また、筑後川にはたくさんの川魚が住んでいて、それを取つて生活の一部にあてていました。筑後川は農業用水としても私たちにめぐみをもたらし、まさに「母なる河」でありました。


 筑後川の渡し


 筑後川は筑前の国と筑後の国との国境でもあり、両国の人びとが生活していくうえで渡し舟で結ばれていました。
 渡し場は上流から橘田渡し、高田渡し、今泉渡し、田中渡し、上寺渡し、行徳渡し、虚空蔵(猿丸)渡しなどがあり、渡し舟で人びとや牛馬を乗せて往き来していました。


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