5恵蘇八幡宮(恵蘇宿)
   
     
 斉明7(661)年に斉明天皇は百済を助けるためにこの朝倉の地に皇居と大本営をうつされました
 皇太子である中大兄皇子は、新羅をうつときの勝利を祈願するために、豊前の国(大分県宇佐)の宇佐八幡宮へ使いをだされ、自分も橘の広庭の宮の大本営で祈願をされました。
 
そのとき、天から白旗が降り、その白旗の中に「八幡大神」の文字がはっきりとでていましたので、そこに宮を建て「朝倉山天降り八幡」としてあがめられました。
 その後、天武3(673)年には社殿を建て、宇佐八幡宮その後、天武三(六七三)年には枇蹴を建て、宇佐八幡宮からみたまをうつした応神天皇(15)と、斉明・天智両天皇を合わせまつり、恵蘇八幡三柱大神と名づけられました。
 昔は上座郡のうち三十三か所をまとめ、おさめていた社したが、現在は朝倉町の総社となっています。


6朝闇寺跡(長安寺)
 
 朝鞍寺また長安寺ともいわれています。朝倉宮の社僧(神社で仏事行なう
僧侶)の寺を朝倉山長安寺といって天台宗のお寺が須川村にあったことがし
るされています。


 その昔は、朝の闇と書いて「ちようあん寺」とよばれていました。朝倉の地
名のおこりは「朝闇し」がその起こりともつたえられています。いずれにして
も文字の意味にはいろいろなことがらがふくまれているようです。
 
 斉明天皇が橘広庭の宮でおなくなりになったあと、天智天皇は母君のご冥福
を祈られ、筑紫の大宰府に観世音寺を建てられたのと同じ頃、朝倉に朝闇寺を
建てられ他のが筑紫の尼寺と呼ばれていました。
寺跡からは基礎となる木組や敷石・礎石のほか、特に祝部土器の破片には、
「大寺」「朝」などしるしの入った証拠の遺物が数多く発掘されています。
 
 なお付近には鐘突・馬乗りなど寺に因んだ地名があります。また、部落の
北には朝闇寺の境内にあったといわれる毘沙門堂が残っています。
長安跡の碑

       長闇寺址          後方:長闇神社


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                            「南淋寺」