古い玉垣にかこまれ、うっそうとしげった木々にかこまれているこの「福成神社」は里人から「入地のお宮」としたしまれています。
その昔、景行天皇(12代)が熊襲せいばつのとき、海上守護神(海の守り神)である宗像三女神(田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命)をおまつりになったと伝えられ、朝倉町では一番古い神杜といわれています。後に斉明・天智天皇も合わせまつられました。
その後、神功皇后がふたたび熊襲を討たれ、三韓(当時の南朝鮮のくにぐに)せいばつのとき、この地にこられて戦争の勝利を祈願されました。このとき皇后は神の助けに
よって「大いに福成りぬ」と言われたことから福成という地名がおこり、この地に杜を建てたので「福成神杜」と呼ぶようになったと伝えられています。
また、斉明天皇も、朝倉橘広庭宮に着かれてから三日後には新羅との戦争の勝利を祈願されたといういわれのある神杜です。
神社の南70メートルほどのところ一帯を「女御呂木」といい、神輿休みというお宮の旅所(祭りのとき、みこしをしばらくとめておくところ)があったところといわれていますが、また、橘広庭宮の宮殿につかえる女官たちの宿舎があったところともいわれています。
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