乙王丸集落の南東の端にこんもりと茂った鎮守の森があります。ここが大字大庭の人たちが氏子となって、氏神をお祭りしている太刀八幡宮です。
その昔、仲哀天皇(14代)の后である神功皇后は、日向国の豪族である熊襲を討ち、秋月古処山の麓の地方でさわいでいた羽白熊鷲という賊をたいらげ、つづいて筑後地方の山門にいた土蜘蛛田油津姫という強敵をほろぼすために、この大庭の高台に軍勢を進められました。また、三韓出兵の準備もされました。
そして、この地で神をまつり、みずから帯びていた自分の太刀を奉納して戦いの勝利を祈願されたといわれています。
その後、52代嵯峨天皇の弘仁14(823)年、豊前の国の宇佐八幡の霊を移して、杜殿を建て、応神天皇(15代).比売三女神(天照大神の子で田心姫命、滞津姫命、市杵島姫命のこと)・神功皇后を祭り、太刀八幡宮といわれるようになったと伝えられています。
また、南北朝時代のころ、北朝の武将も古代の史実にならってこの社に弓矢・太刀を奉納して戦陣にむかったとつたえられ、戦の神としてあがめていたことが、太刀八幡宮の縁起(ものごとのおこり)にかかれています。
境内には太刀を納めた太刀塚があり、「御太刀塚」の碑がたっています。
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御太刀塚 |
このお宮は、天正15(1587)年、豊臣秀吉の大軍が九州を平定したとき、戦火のため焼かれましたが文禄3(1594)年に氏子によって再建され、さらに文政11(1828)年8月の台風で倒れましたので再び建てなおして現在にいたっています。
なお、神社の南側、石段を下ったところに、堀川の恩人と仰がれた古賀百工が、穀物のみのりを祈願して寄進(神社や寺に財産・おかね・品物などを寄付する)した、大変珍しい「子持鳥居」がたっています。
太刀八幡宮の南の方に徳次・塗器という集落の地名がありますが・この名前のおこりは神功皇后がこの地にこられたときできたといわれています。
徳次は「磨剣」であって、剣などを磨がれたところで、また、塗器は剣や槍などに漆などを塗らせたところとつたえられています。戦の準備におわれているありさまが目に見えてくるようです。
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「別所神社」
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