古代の繁栄

 朝倉町では六世紀後半になって古墳の数がめだって多くなっています。このことは古墳をつくる富と力を蓄えていた人たちが多かったからでしょう。
 生産物も増え、人口も増えてきました。人びとのくらしも豊かになってきました。
 大きな勢力をもつ支配者の下に、とくに、筑後川による交易(品物を交換して売り買いする)を中心とした産業が発達して、かなりの繁栄をもたらしていたのではないかと思われます。


 筑後川は私たちの朝倉町の暮らしに遠い昔から深いかかわりを持ってきました。
古い書物の中には、菱野のあたりを織面(おべ)(みなと)(港)とよび、比良松あたりを広瀬郷といって、商業を営む地として記され,います。このことは筑後川が菱野のあたりから比良松にかけて流れており、舟での交易が盛んであったことが考えられます。とくに菱野や山田地区の台地からは糸を紡ぐときに用いた紡錘車の出土が多く、むかしから桑畑が多く養蚕のさかんな地方でもありました。織面の湊の地名からしても、この頃から織物の産地として栄え、その織物を取引商人の多い広瀬郷に卸し、筑後川を利用して他の地域と交易をしていたのはないでしょうか。
 わたし(筆者)たちが幼い昭和のはじめ頃までは、筑後川上流から、または下流から、帆掛け舟や筏舟が行ったり来たりしていたことを思い出しますと、その交易が行われていたことをいっそう強く感じるのです


 七世紀の中頃(661)には斉明天皇が百済を援けるために西国の拠点(前に進むための足場)として朝倉宮にこられました。 
 天皇は、おそらく、大集団の宮人を連れてこられたことでしょう。いくさをするうえで、地形もつごうがよく、また、都の人たちを受け入れるための食糧や経済力(富と力)がそなわっていなければなりません。下須川の遺跡からたくさんの炭化米が出土したことからしても、そのころの豊かさをおしはかることができるのではないでしょうか。ともかく、七世紀中頃の朝倉町は想像以上に活気に満ちていた時代のように思われます。


                      
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