古賀百工の功績
 堀川の歴史を語るとき忘れてならない人に、「堀川の恩人」と仰がれている古賀百工という人がいます。百工は、享保3(1718)年上座郡大庭村(現在の朝倉町上ノ原の徳次)の庄屋の家に生まれ、父のあとをついで庄屋になりました。百工はうち続くかんばつや、水害に見舞われ、貧しさにあえぐ農民をみるにつけ深く心を痛め、日夜その解決策に思いをめぐらしていました。百工は農民が安定した生活をするには、治水(水流をよくし、水害を防ぎ、水を田に引く)しかないことをつきとめ、自分の一生を治水事業にささげる決心をしました。
 そしてそれはつぎのような事業にあらわれ、農民に大きな恩けいをあたえました
古賀百工翁頌徳碑
堀川の改良工箏と新堀川の増設
石碑 左:堀川紀功碑 中央:古賀百工翁頌徳碑 右:水害復旧碑 水神社から筑後川と山田堰

 寛文3(1663)年に堀川が開通し、150ヘクタールの灌漑が出来るようになってはいましたが、まだ全面積の一部に過ぎませんでした。百工はもつと水量を豊富にし、安定したかんがいができ、別の田んぼへも水を送るにはどうしても新しい堀川を作り、筑後川からたくさんの水を引かねばと考えました。そして藩に願いを出し、宝暦91759)年藩の許しを得て、十時源助(大川奉行)らとともに、まずはじめに切貫水門の拡張、つまり水の取り入れ口を切りひろめる工事をし、今までの五尺四方(約1.5メートル)から2倍の十尺(3.03メートル)にして水の流れをよくしました。
 続いてあくる年には筑後川の井堰のかさ上げ(さらに高くせきあげる)をしたり、古毛柴田橋から田中の突分けまでの堀川の川幅をひろげました。これは新しい堀川をつくつても水量を豊富にしなければ康かがないからです。
 さて、いよいよ同じ年の宝暦101760)年から明和元(1764)年まで五か年の歳月をついやして、今まで突分けから大角・小塚方面にだけ流れていた水を新たに長渕、余名持・下座郡(甘木市)方面に流すための新しい川を作りはじめました。
 百工は新しく堀川をつくるために直ちにその新しい路線の測量にかかりました。当時の測量器具は簡単なもので、その苦心は並々ならぬものがありました。
 百工は木に登って方向を定めたり、昼は布で見当をつけ、土地の高さや低さを測るために高張提灯を用い、夜になると灯をともし、それで高さを測りました。また、たらいに水を盛って水平をはかるなど、来る日も来る日も百工が木に登っているので「猿どん」といわれていました。
 苦心さんたんの末に、恵蘇宿水神社境内の「月見の石」と下座郡城力の庄屋の庭にある銀杏(ぎんなん)の頂上が同じ高さであり、したがって銀杏の木の高さだけの高低差のあることを見きわめ、確固たる自信をもって堀川の設計図を作りました。
 こうして「新堀川」といわれる堀川の工事が完成し、そのかんがい面積はいちやく370町歩(370ヘクタール)に増加しました。
 「突分け」という地名もその時から生まれました。その時、百工46歳、堀川ができて102年後のことでした。
高張提灯 月 見 石


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