山田石堰の大改修(現在の石だたみ)
水神社鳥居 水神社本殿
 古賀百工のこうしたかずかずの功績と才能が認められて寛政21790)年、山田井堰の大改修の藩命がくだりました。堀川ができてすでに127年がたち、百工も72歳の高齢になっていました。「命をかけて、この事業を実現しよう。」
 百工の胸のなかには青年のような血潮がわきあがっていました。しかし、水量の多い筑後川をどうやって全部せきとめるか、そこには大きな難しい問題がいくつも横たわっていました。
 養子の十郎次は、百工の前に広げられた石堰の絵図面の規模の大きさに、気をのまれるようにぼうぜんとなりました。あの広い筑後川いっぱいに石だたみがしきつめられているのです。
 工事には、おびただしい農民が動員されました。農民は打ち続く干害に苦しみぬいてきた人びとであり、しかも日ごろ尊敬する百工のさい配です。せっぱづまった思いが農民の心にみなぎり、不可能なことでも成し遂げる力が備わっていきました。
 志波村(杷木町)高山のはしの瀬に仮に堰を造る者、小江村(杷木町)の対岸に水かえ水路を掘る者、丸太の木枠を打ちこむ者、大きな石を運搬する者、下流から少しずつ大きな石を組み合わせていく石工、水中にもぐり根石を積み上げる者など、人びとは百工の手足のように動きました。そして、工事が進行するにつれて人びとの夢はふくらんできました。
 百工は十郎次とともに寝食を忘れて工事の指揮監督にあたりました。
 この井堰のうち、もっとも水の抵抗の強い部分の石だたみの設計は、とくに百工の苦心したところでありました。井堰全体に強い水圧を加えずに、しかも取り入れ口に十分な水を送ることができるこう配のつけ方、また筑後川の急流に耐えうるだけの石だたみの築造には全知全能をしぼりました。一個の石がはぐれても井堰全体が破壊されるので、.一個の石といえどもゆるがせにはできませんでした。まさに真剣勝負の工事でありました。
 百工の陣頭指揮に、生きるために必死の農民は、それこそ戦場さながらにかけ声勇ましくすさまじい勢いで石を水の中に投げ入れ、井堰を造りあげていきました こうして、さしもの大改修事業もついに完成し、新堀川開通後の370ヘクタールから、一足飛びに487町歩(487ヘクタール)となりました。町歩一四百八十七ヘクタール一となりました。
 その後明治、大正、昭和のはじめに行われた畑地の耕地整理事業によって今では約700ヘクタールの田に筑後川からの水を取り入れています。
 百工翁はそれから後の寛政101798)年5月24日、徳次の自宅で81歳の高齢でなくなりました基は現在三寺の上楽の集団墓地の中にあります。
 餐を思い、郷土を愛する人柄、郷土の人々のために命をかけて、大事業を成し遂げる強い信念、そしてなにものにもくじけない百工の心を、人々は偉人とし、また恩人として後世まで敬愛しています。
 このことは同じ水神社の境内に建っている「堀川紀功碑」や「古賀百工翁頌徳(徳をほめたたえる)碑」にきざまれています。くわしいことは鶴田多々穂編「山田井堰、堀川三百年史』に書かれています。
山  田  堰


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