2アサクラの名の起こり
今から15,6百年ほど前は大和政権が日本の国ぐにを統一していった時代ですが、このころ、福岡県では筑前・筑後の地方が一番栄え、「筑紫のくに」というひとつの国をつくっていました。筑前の国は十五の郡に分けられて、もとの朝倉地方は夜須・下座・上座の三郡からなっていました。
上座をカミツアサクラ(上都安佐久良)、下座をシモツアサクラ(下都安佐久良)とよんでいました。
アサクラは斉明天皇(661年)の朝倉宮が最初に考えられ、『日本書紀』という本には朝倉山(恵蘇(えその)宿(しゅく)の裏山、山田、須川あたりの山)や朝倉杜(やしろ)の名が見られます。
アサクラの名の起こりについては、郷土の先覚者古賀益城さん(宮野の人)が書かれた『あさくら物語』には次のようにでています。
一、東に山があって日の出がおそいので朝(あさ)闇(くら)といった。
ニ、谷の方言をクラというので、桂川の谷をさして浅い(あさい)谷(くら)といった。
三、校倉造(あぜくらづくり)といって、横に木をたたんで朝倉の地に木(こ)の丸(まる)殿(でん) をつくったので、校倉のなまりであるといった。
四、「あさ」は「あざ」で仮の意味があり、「くら」は「座」または「宮」とも かんがえられるので「あさくら」は「仮宮」の意味であるといった。 |
朝倉やこの丸殿に我おれば
名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ
という天智天皇のおうたがのこっています。
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木 之 丸 殿
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「朝倉町のうつりかわり」
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