朝倉町下町外畑遺跡 (平成14年発掘調査)
                                                   福岡県教育庁総務部文化財保護課
  遺跡名
:下町外畑(しもまちそとはた)遺跡
  所在地:福岡県朝倉郡朝倉町大字宮野字下町
  出士の経緯:国道386号バイパス建設に伴う発掘調蚕

 <遺跡の概要.>
   遺跡の年代:縄文時代・古憤時代・近世・近.

 主な検出遺構:
  ・古憤時代
    1号憤…前方後円墳
    4号墳…方形(ほうけいしゅうこうぼ)
    13号墓石蓋土壙墓(いしぶたどこうぼ)
  ※このほかこれまでの調査では、以下のような古墳時代の遺構が検出されています。
    2号墳…方形周溝墓(3世紀末へ4世紀初頭 朝倉町が調査)
    3号墳…竪穴式石室の一部(5世紀後半 福岡県教育委員会が調査)

 遺跡の立地:
下町外畑遺跡は、朝倉町中心部を東北から西南に流れる桂川(筑後川支流)の西岸河岸段丘の南端に位置します。
 遺跡の標高は約31
mです。

    
下町外畑遺跡全景 一号墳
後円墳 埋蔵施設

 1号墳(前方後円墳)について:

墳丘の規模は全長約48m、周濠も含めると約60mと推定されます。この古憤は元々、前方後円墳の墳形に沿って盛り土がされでいたのですが・後世の削平により墳丘は、後円部の約3分の2が方形に残るのみで埋葬施設が残っている可能性は低いと考えられます。
 古墳の墳丘には、円筒埴輪という筒状の埴輪が沢山並べられることが多いのですが、これはもともと、壷と壷を載せるための器台を組み合わせて飾っていたものが変化したものです。
 1号憤の周濠から出土した土器は、壷と器台が一体化して中空になった士器で、この地域におい手土器から埴輪へと変化する過渡的様相を示すもので、全国的にも珍しい形態のものと考えられ、非常に重要です。
 この土器から
1号墳の年代は古憤跨代前期の中頃(4世紀前半頃)と者えられます。

 4号墳について:

幅約1mの周溝を持つ、一辺約8mの方形周溝墓です。埋葬施設は、板石を組み合わせた箱式石棺です、石棺内は赤色顔料で赤く塗られています。後世の石の抜き取りにより、南半分は壊されていました。副葬品はありませんでした。

  13号墓について

1号墓は土壌に大きな板石で蓋をする石蓋土壙墓です。一号墓の蓋石の大きさは2.0mあり、墓の床面には赤色顔料がみられます。2号墓と3号墓は蓋石をもつ墓で、並んで造られており、2号墓の蓋石の大きさは1.3m3号墓の蓋石の大きさは2.2mで・2号墓は規模が小さく子供の墓と考えられます。現在調査中のため、詳細は不明です。

: まとめ:

今回の調査では、1号墳が全長約60mの規模の前方後円憤であることが解りました。その憤形と規模から考えても、この古憤が4世紀前半の朝倉地域における首長墓であったと考えられます。これまで1号墳についてはその存在が知られていませんでしたが、今回の調査でその存在と重要性が明らかになりました。
 また、1号墳の南こ4墓の古墳時代の墓が見つかりましたが、墳丘の主軸方向はすべて南北方向を指すことから1号墳と密接な関係にあったことが窺われます。このことや、2号墳の存在から、1号墳を取り巻くように古 墳時代の墓地か展開していたと考えられます。
 筑後川流域の古墳時代前期の前方後円憤は、小郡市の津古生掛古憤、津古1・2号墳、三国の鼻1号墳、甘木市の神蔵古墳等で、数も少なく、今回調査された下町外畑1号墳に重要な遺跡です。
 また当古墳の北には、埴輪を持つ前方後円墳である宮地嶽古憤(4世紀末頃〉か存在し、当古墳に後続する首長墓と者えられます。このことから古墳時代前期の桂川流域には、朝倉地域の曽長墓が継続して存在したと考えられます。また古墳時代後期には、装飾古墳である湯の隈古墳(6世紀後半頃)や狐塚古憤(7世紀初頭)の首長墓がみられ、この地域の重要性が窺われます。
 以上から・下町外畑遺跡は古墳時代の朝倉地域、また筑後川流域全体の動向を知る上で非常に重要な遺跡 といえるでしょう。


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