外之隈遺跡の鏡(夫字山田)

   外之隈遺跡は杷木町と朝倉町の境いめにあって、筑後川の流れ を眼下に見降す丘陵の突き出たところにあります。その町境にあ る古墳時代初期(約千七百年前)の墓から中国製の鏡が発見されま した。
  これは、画文帯神獣鏡という青銅の鏡で、中国の三国時代(紀元 三世紀)の頃につくられたものと考えられます。
  もともと破片のままで副葬されており、近くには小さな勾玉一 個もありました。青銅鏡は中国では姿を映すために使われました が、日本では宝もの、または祭の道具としてのあつかいをうけて いました。
  この遺跡からこれほどの質のよい鏡が出土したことは、この地 方にかなりの力を持った集団が住んでいたことをうかがわせます。

画文帯神獣鏡

大迫遣跡の火葬墓群(大字山田)

  この遺跡は、恵蘇八幡宮の北側丘陵の急な斜面にあって、奈良 時代末から平安時代にかけての全国でもひじょうに少ない火葬墓 群で、火葬墓七十二基、人を火葬にした火葬場五基が発見されま した。
  火葬墓は平たいところに一辺が2〜3メートルの溝をコの字形 に巡らし、その中央に直径3050センチ、深さ3070センチの穴 を掘って火葬した骨を炭や灰とともに埋葬しています。
  火葬墓のおこりについては、『続日本紀』に、文武4(七百)年 に「道昭というお坊さんがなくなり、はじめて火葬する」と書い てあります。火葬がなされたはじめは、僧侶・皇族・上級の役人 などの埋葬法でありました。
  この遺跡は少し時代は下がりますが、この地方の僧侶または役 人クラスの墓所であると考えられます。この時期の寺院としては 、須川に朝闇寺跡があり、そのつながりが今後注目されることに なるでしょう。
 
火葬墓


西法寺遺跡の(てしゃくじょう)と鉄剣(大字大庭)

  奈良時代の竪穴住居七十四軒をはじめとして平安〜鎌倉時代の遺物が多 数発見されました。とりわけ、奈良時代の集落は小単位ごとに群がって住ん  でいたこともわかりました。
  また、非常に珍しい物として鎌倉時代のものと思われる手錫杖
(僧・修験者 が持って歩くつえ)と鉄剣が穴から出土しました。おそらく修験者の墓でしよう
  このことは現在小字名として西法寺の地名が残っていることからたいへん  興味深いことだといえます。

手錫杖と鉄剣


才田遺跡(大字入地)

 桂川の右岸段丘上に営まれた、古墳〜鎌倉時代にわたる大集落の跡であります。とりわけ、平安〜鎌倉時代の十数棟におよぶ掘立柱の建物には(ひさし)(えん)が付く大きな建物をはじめ、総柱の倉庫などが発見されました。建物群の周辺には墓地、井戸、あなぐらなどがあって、それらからは宋銭(中国のおかね)をはじめ、中国産の一級品にあたる陶磁器類が多数出土しました。その内容は一般農民の集落とはちがって、より上流階級の集落といえるでしょう。この地域の有力者か、周辺にあったといわれる中世(鎌倉〜室町時代)の長渕の荘・黒島の荘(荘園)などの荘官クラスの住宅であったのではないでしょうか、ひじょうに貴重な遺跡といわれています。
才田遺跡全景 中国製陶磁器


                                  NEXT

                             「おもな古墳」