円清寺 |
龍光山円清寺 曹洞宗 所在杷木町志波政所 本寺は筑前藩主黒田長政の父孝高公が、慶長9年なくなったとき、志波以東の宰領をまかされていた黒田藩家老栗山備後利安が、主君孝高公菩提のために建立したもので、山号寺号もその法名「龍光院如水円清居士」に因んだものである。したがって黒田孝高公、長政公の位牌や梵鐘、画像等黒田家ゆかりの品々が保存されている。当寺の御本尊聖観世音像は、初め金烏山紫雲庵にあった「おしどり観音像」で豪雨による山崩れで紫雲庵が崩壌したとき、村人たちは幸うじてその御本尊だけを取出し、小堂に安置していたものを円清寺建立の際、奉移して当寺の御本尊にしたものと伝えられている。 また当寺の梵鐘は国の重要文化財に指定されている。 現住職は第二十三世渕上良誘師である。 |
円清寺 本堂 |
鐘 楼 | 銅 鐘 | 栗山大膳追慕碑 |
国指定重要文化財 銅鐘円清寺蔵 大正元年九月三日貝宝指定 円清寺は黒田藩の重臣栗山備後利安が、主君黒田如水(官兵衛)の死亡した、慶長9年(1604年)その冥福を祈る為に建立した寺である。 如水の法号、龍光院殿如水円清大居士からとつて、そのまま龍光山円清寺と名付けられたものである。この梵鐘は長政がこの寺に寄贈したもので、長政が文禄の役で朝鮮から持ち帰ったものと言われるが、加藤一純著、筑前国続風土記附録には次の如く書かれている。 円清寺の撞鐘は慶長5年の乱に如水公豊後国を治め給う時、日田郡渡り村吹揚山長福寺と云える寺に有し鐘をとらせられ、城下に置給ひしを、円清寺造立の時、長政公是を賜りて寺宝となれりと言う華物にして播州高砂尾上の鐘に彷佛たる奇鐘なり。) この地域の住民はこの鐘ぱ金を入れて造ったもので音色がすばらしいと話している。余韻嫋嫋として遥かに遠くまでひびく鐘の音は、実に優美の極みと言える。音は干魃が続くと、この鐘をもち出して筑後川につける風習があった。雨乞いの為に何度も筑後川に沈められている。高さ66糎強、口径49糎、撞座の両方に天人飛翔の図がある。製作年代は記してないが、高麗時代初頭の製作と言われている。 銅鐘の研究家である神戸市の古家実造氏が円清寺に寄せられた鑑定の結果を手紙に書いたものの一部を掲載する。(昭和十四年記) 御保存の名鐘、朝鮮鐘は、我国に伝来する朝鮮鐘中最古の銘を有する。越前常宮 神社の鐘と形態最も類似し、形のよき点に拾いては屈指のものと思われます。常宮 神杜の鐘は其の銘文によれば、唐の天和7年の鋳造にかかり、我淳和天皇の天長1 0年(833)に当り今より1115年前のものです。貴寺鐘の上帯内の文様は、宇佐八 幡宮御所蔵の朝鮮鐘の上帯文様に似た点があります。この鐘は我国伝来朝鮮鐘中、 常宮神社に次ぐ古き銘があります。即ち唐の天復4年、我国の醍醐天皇の延喜4年( 904)に当り今より1035年前の古鐘です。又天人は博多聖福寺の国宝朝鮮鐘の天 人の一部に類似いたし、最も優秀なる部類に人るものです。 その他鐘座文様、下帯内文様も精工なる出来ばえと思われます。殊に竜頭及び笠 の周囲の文様は他に類例少なく最も特色を有するものです。種々の点より考え貴寺 鐘は新羅末期又は高麗朝初期に属するもので、我国の平安朝中期を下らない時期 の製作ではないかと考えられます。 尚、今後充分研究いたしたいと考えています。(原文候文) 以上福岡県の文化財及古家氏手紙より |
円清寺 左:本堂 正面:鐘楼 |
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