杷木町におげる神杜
杷木町における神社の数は、文化14年調べの「上座郡神杜幡」(宝満宮所蔵)によると、式内社1
、上郷19か村の総杜1、産神杜21、その他摂社、末社等の小祠148となっているが、この数は現在でも余り変りがないものと思われる。
かつて天正のころ、産神杜以上の多くは大友宗麟の焼討ちに逢い、そのためどの神杜にも、これら神社の歴史を物語るべき、神宝、旧記、社記の類が残されておらず、したがってその詳細を知る由もないが、その後に作られたであろう縁起のある所は、その縁起を調べ、加えて「朝倉風土記」を以て主資料とした。
「朝倉風土記」は昭和39年に、朝倉郡公民館連合会が刊行したもので、貝原益軒の「筑前国続風土記」、「同附録」、「同拾遺」、並びに伊藤常足の「大宰管内誌」、古賀仁右エ門の「朝倉紀聞」などから、甘木市朝倉郡関係のものを抽出集録したもので、その原文は古文体あり漢文体ありで、理解しにくい点が多いので、これを現代文に書き改めたが、神社縁起の類はその性質上原文のままを載せることにした。


 麻底良布神社
     所在:志波

麻底良布神社 鳥居 : 左右(まてら)良城跡石碑 左右(まてら)良城跡
 「延喜式神名帳」に「上座郡麻底良布神社 小一座」と記されている。延喜式というのは醍醐天皇の延長5年(927)に、官府の作法を定めたもので、他の律、令、格等の施行紬則を制定したもので、その神名帳に登載されている神社である。
 斉明天皇の7年(661)5月、唐と新羅の攻撃を受けて危機にある百済の乞いを容れて救援軍を送るべく、その準備のため中大兄皇子、大海人皇子ほか文武百官を引連れて筑紫に下られた斉明天皇は、朝倉の橘の広庭の行宮に移られた。
 この行宮を建てるとき「朝倉の社の木を伐り除けて造ったために、神の怒りにふれ宮殿は毀され、側近に侍する者多く病に死す」と「目本紀」に記されてあるので、そのときこのところにあった御社を麻底良布山上に遷しまいらせ、その跡に行宮を建てたものであろう。
 そのためか宮殿内で病にたおれる者多く、斉明天皇もまたその年の7月に没せられた。御子中大兄皇子は朝倉の関の山上に仮葬せられ、御自身は丸木の御殿を建てさせ芦の簾に苫の屋根、塊を枕にし、一年もの永い間まつりごとに遠ざかることをおそれ、日を月にかえて12日間
服喪し給う。
 その後枢を盤瀬宮(今の博多の長津)に移されたが、その葬儀のタベ大笠をつけた鬼が朝倉山上から見おろしていたという。
 中大兄皇子は即位して天智天皇となるや、御母帝の贖罪のため、宮柱太しく立てて麻底良布神杜を尊崇された、と「神社縁起」に記されてある。
 また、天智天皇の御弟天武天皇もその白鳳10年(682)封戸百戸を寄進されたという。
(封戸とは、各戸で納める田租の半額と、その戸の庸、調分を合したものをいう)
 次いで陽成天皇野「元慶元年(877)9月従5位上授けられ、同3年9月には正5位下、同4年6月には正五位上を授けられた。」と「三代実録」に書かれてある。
 麻底良布神杜はこのように格式高い神社であるが、元龜天正と打ち続く戦乱の時代に、いつの間にか杜地は没収され、杜屋もまた荒廃を極め、見るかげもなくなっていたのを、慶長5年に黒田長政が筑前の領主になったとき、その臣栗山備後利安が志波以東を采領することになり祭田を寄進し、続いて鎌田昌生が郡主になった元禄年間に本殿、拝殿を建てて烏居も寄進している。
 その後、宝永4年(1707)郡氏が郡主となってからも修復が加えられ、寛延2年(1749)には拝殿が建て替えられ、宝暦10年(1760)には神殿も建て替えられている。ついで安永元年(1772)8月十四日拝殿が建てられたというがその後の記録はない。
 世は明治大正と代わるにつれ、杜も人里離れた山上にあるため杜屋も荒れるにまかせ、辛
うじて三月十五日の祭礼だけが続けられている。

麻底良布神社から志波の柿畑 麻底良布神社から原鶴方面
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