お  寺
  普門院
普門院本堂




国指定重要文化財(特別保護建造物)

普門院本堂  志波地区政所
       大正二年四月十四日指定

普門院は志波地区政所にある。麻氏良山のすぐ麓、高層閑寂な境地にたたずんでいる。 本寺は真言宗大覚寺派に属し、天平19年(747)丁亥三月聖武天皇の勅願により、僧行基が筑後川畔(現在地の西南方中島)に創建したと伝えられている。最初は広大山普門寺と号したが天和年中普門寺の号を改め、普門院と称した。寺は筑後川畔の中島にあったが度々の水害により、現在地に移築されたと言われている。その移転がいつ頃行われたかは何一つ資料がないので不明であるが、現在の建築が鎌倉時代に再建されたものと認められているので、その頃ではあるまいか。ともあれ古建築物の少ない福岡県では最古の建築物である。
 戦国時代大友氏の兵乱により、寺宝・文書等紛失して現在は何も残っていない。明治2年3月、一旦廃寺となったが、阿波国勝浦郡小松島村中本寺末寺地蔵寺観音寺を合併、観音寺と称して再興したものである。その後大正2年9月6日、普門院と寺号を復旧して今日に至っている。大正2年4月14日特別保護建造物に指定きれ終戦後自動的に重要文化財になったものである。建物の手法は鎌倉末期の再建と認められている。爾後永禄、天正、慶長、元和、万治、元禄年間に修理されている。
尚、宝歴5年8月堂側の松が倒れ掛り屋根瓦等を大破したので、藩に願出た処黒田藩より楠樹三本を賜りこれで修理したことが、棟覆の鉢瓦にヘラ書で残されている。
  一棟覆鉢内(箆書)
當寺住僧春岸代宝暦5年8月大風に付三周餘の松中より本堂に倒懸瓦不残落及大破明和三戊年修理存立公儀より楠三本拝領壬辰年(明和9年)成就光岸造立之
 建物の概要は、桁行三間梁間三間、三間の向拝附、屋根宝形造り、向拝縋破風造、総瓦葺、四方廻橡附、南面元来の構造は桁行五間梁間四間であったものを、現在規
模に縮少されたもので、その跡が歴然と残っている。更に向拝も江戸時代附加されたものであるという。



                                          普門院木造十一面観音立像
国指定重要文化財

普門院木造十一面観音立像
        大正元年九月三日国宝指定

 十一面観世音は、本面一と、項上十を加えて十一面の場合と、項上が十一面で本面一を加える場合がある。普門院の十一面観世音は後の場合に属する。高さ1.76米漆箔の立像である。髪髻は瓜状の簡素なもので、白毫は水晶を嵌入、顔は豊頬であるが、眉・眼・口などの彫りは浅い。わずかに腰をひねり、右足を遊ばせて立ち、右手は垂下して珠数をもち、左手に華瓶をもっている。天衣は下裳をまとうのみで、天衣は現在両下膊より垂れる部分を欠損している。下裳は前に薄く、後に厚く姿態は極めて美しい。弘仁期
(810)の作と推定されている。昔は秘仏として六十年に一度開扉されたと言うことである。
                                      福岡県の文化財より

県指定天然記念物

普門院のビャクシン
    昭和五十七年四月一目指定

イブキはヒノキ科の常緑喬木である。普門院のイブキは、高さ七米六〇糎、根回り二米五九糎、枝張り東に四米六〇糎、西に三米六〇糎という大木で、推定樹令は350年と言われている。普門院の山門を通るとすぐ左側に少し傾斜した雄姿を見せている。
 現在の本堂は、昭和14年に解体して根本的修理が行なわれたが、その節現建物の位置が低湿の地であり、建物の保存上好ましくをいという理由で、後方の高台の地に移されている。修理以前、池の附近に本堂があったので、このビャクシンは、本堂の直前向って左側に位置する貴重な神木である。


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