一応現在判明している古墳
○穂坂
弥生時代に書いた陣内から礫で長方形の石棺を積石で築いた古墳が発掘され、副葬品として鉄製の直刀一本が出土した。直刀のみ公民館に保存されているが、小さく折れている。

○西林田
前記馬田実園附近にも石棺があったようである。石棺の蓋石が道路の踏み台になっていたことがある。

○上町
立聞附近も弥生、古墳の複合遺跡である日野先生横に古墳があって、蓋石が庚申様のお供え台になっていたことがある。この石の裏はまだところどころに朱がぬってある。
その南長光寺では埴輪が出土したことがある。
秋葉神社は古墳の上に祭られたもので、神社の唐戸の下に、石棺の口が開いている。東北から西南に石棺が横たわり西南の側石がなくなり、現在口があいている。大正の末期に棺内から頭骨を取り出したことがあるが短時間の内に小さくこわれてしまった。
その後槍がんなと思われる鉄器が出土したがこれは現在の公民館に保管されている。さらにこの神社の下に戦死、戦病者の碑銘を建てたとき子供の嚢棺と思われる壷一個を発掘したことがある。中には朱がつまっていた。
いま町の体育館がある所の一部は昔松木公園があった所で、松木公園が大正年代松木氏によって建設されたとき、古墳が発掘され、鉄鉄等多数が出土したことがある。

○志波地区
志波地区には最も多くの古墳があったと推定されている。麻底良山麓一帯にはたくさんの古墳があったと老人は話している。
今も普門院の附近や笹尾等に古墳が見られる。砥園社も古墳である。
宝満宮の社叢の中には今も幾つかの古墳がある。
前宮司小野直世は、昔家の裏の竹薮の土を取って飾いでふるうと曲玉が幾らでも出てくるので、よく掘ったものだと話されたことがある。
さて昭和六年淋雨が降り続いて、琴平宮横の土砂が落ちて古墳の口が開いた。このことを県に報告すると早速県から嘱託島田寅次郎を派遣してこの古墳の調査が行われた。
その結果二体の人骨と共に夥しい副葬品が発見された。

笹尾古墳
宝満宮境内の古墳

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「神龍石」