古墳に埋もれた話の発掘

  ●装飾古墳の鎖をめぐって

観音塚古墳

装飾古墳は、竪穴もしくは横穴式の石室内部に、彩色された文様や絵画が描かれた墳墓で、五世紀から六世紀にかけて造られたものではないかと推測されています。装飾古墳の中には、舟、あるいは馬などが描かれたものがあり、そのような事実から、朝鮮半島、それも北の方から渡来した人々が造ったのではないか、鉄器をわが国にもたらしたのは彼らではなかったかとさまざまな論護がなされていますが、興味深いのは、装飾古墳のほとんどが、熊本県の菊池川流域もしくは筑後川流域などの北部九州に集中しているということ。
さらに不思議なことには、筑後川流域には確かに装飾古墳が多いのですが、なぜか左岸、すなわち耳納連山側に限られていて、右岸、甘木・朝倉地方ではほとんど見られず、長い間、大きな謎のひとつとして注目を集めてきました。というのも、筑豊や北九州地域では早くから幾つかの装飾古墳が発見ざれていて、〃装飾古墳の連鎖〃が、甘木・朝倉地方で断ち切られてしまっていると考えられていたからです。だが、やがて、朝倉町の宮地獄古墳や三輪町の仙道古墳、夜須町の観音塚古墳が装飾古墳であることが広く知られるようになり、装節古墳の連鎖をめぐる論議は一応の終止符を打つことになりました。しかし、いずれにしても、甘木・朝倉地方に装飾古墳が少ないことは事実です。そこで、裏返えしに推論されるのは、装飾古墳が造られた当時、甘木・朝倉地方にはそれらの勢力を全く寄せつけないほどの、強力な勢力が存在していたのではなかったかということです。甘木・朝倉地方の朝もやは濃く深く、時に風景を墨絵のように変えてしまうほど。古代史のロマンを追う人の多くは、その朝もやと古代史の幾つかの謎を重複させて、甘木・朝倉地方の当時の歴史はまだ、もやの中、だからこそ魅力があるのだと語っています。

●王国発見!


1985年の年の幕れ、夜須町の峰遺跡のかめ棺から「壁」が発見ざれ、大きな話題になりました。ガラスの壁は、今からほぼ2000年ほど前には、鏡や剣と併せて三種の神器とされ、王権の象徴とされていたものです。すなわち、壁が発見されたということは、そこに埋葬されていた人物が「王」か、もしくはそれに近い権威を持つ人物であり、そのことはとりもなわさず、周辺に王国が存在していたことを意味しています。宝満川の周辺、すなわち夜須町や三輪町一帯は、古くからの農耕適地で、農耕の先進地域の一つではなかったかと類推され、より早くから王国が存在したのではないかといわれていて、それが壁の発見によって裏付けられたというわけです。峰遺跡で発見された壁の中には、糸島郡前原町の三雲遺跡や春日市の須玖岡本遺跡からしか出ていないという、貴重な壁も混じっています。 これらの遺跡は、すでに、かなりの規模の王国の存在を示すものだとするのが定説となっていますから、峰遺跡もまた、かなりの王国の存在の可能性を示すものだといえそうです。
言い伝え、神話、あるいは先に紹介した「邪馬台国説」そして、日本一古いともいわれる神社の存在、ざらに、この峰遺跡での壁の発見という事実を重ねてみると、自ずと同地一帯の輪郭が浮かんできます。この地に存在したのが邪馬台国であったかどうかはともかくとして、周辺にはまだ幾つかの王国が存在したのではなかったか。それらが連合王国として、かなりの勢力を有していたのかもしれない。学間的な結論は、まだこれからの研究を待たなければなりませんが、峰遺跡での壁の発見によって、可能性が大きくふくらんだことは確かです。朝倉平野の朝もやは、そのふところに、壮大な歴史のロマンを秘めて、優しく、豊かな大地をおおっています。

楯持人形埴輪

  写真提供:福岡県教育委員会


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