(協力 北野町教育委員会)
益影の井(ますかげのい) 高良山御手洗(みたらい)の清水と朝妻の清水と合わせ御井(三井)郡の名前の由来となっている。 神功(じんぐう)皇后が三韓の遠征から凱旋された折、応神(おうじん)天皇を出産され、産湯としてこの水を差し上げたと伝えられている。 これ以来安産の祝水として用いられていた。 |
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豊比盗_社(とよひめじんじゃ) 神功皇后の妹姫豊姫命を祀っている。神殿の扉には天皇家の菊の御紋がはめ込んである 平安時代にはたびたび中央からも勅使が遣わされた。日比生の銅鐸矛は神社境内から発掘された。この神社も中世には退転して現在の神社は村民の手によって再建されたもの。 |
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塚島(つかじま)古墳(古墳時代) 塚島天満宮の境内にあり、別名「塚大明神」、「豊姫宮」ともいい、豊姫命(神功皇后の妹)の霊廟といわれている。 この古墳は、筑後川の度重なる洪水のため、原形をとどめず、現在では、巨石だけが積み重なっている状況。 この付近からは、多数の甕棺や土器の破片などが出土している。 |
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良積(よしづみ)遺跡(縄文時代〜平安時代後期) 縄文時代後期から平安時代までの遺物や遺構が残っている。特にメノウ石器は西日本で始めて発掘された。弥生時代前期には白メノウを使って石器を造る文化がこの地域にあったことを証明している。 方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)断面が三角形になっているのが特徴のこの鏡は、全国でも珍しく、後漢から伝わったものだと推測されている。 鏡の発見により北野町にも王がいたと考えられ、魏志倭人伝に書かれた三十のクニのひとつがあったと考えられる。 (資料提供 北野町教育委員会) 良積石 大化の改新や大宝律令の制定などで、整った政治形態。しかし、時が経つにしたがい、規律が緩み、中央から地方に派遣された国司や土地の権力者は、私利私欲に走り始めた。そこで、筑後国司として赴任した都の御酉(みとり)は、不正を取り締まり、正常に戻すように努力したが、賊によって殺害された。朝廷から派遣された、藤原朝臣良積(ふじわらのあそんよしづみ)によって賊討伐が出来た。一般的にはこの石は良積の墓といわれていますが、実は殺害された御酉の墓という説もあります。 クリックしてください(説明文の拡大) |
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神代(くましろ)の浮橋(鎌倉時代) |
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古北渡(ふるきたわたし)(南北朝時代) 京の都に幕府を開いた足利尊氏は、その後も全国で、後醍醐天皇方と激戦を繰り広げていた。その一つ、大原(現在の小郡市)付近で戦っていた足利 方の少弐(しょうに)軍を背後から奇襲するため、後醍醐天皇方の菊池武光が、夜、5千騎の精兵を率いて、筑後川を渡った場所。この作戦で、少弐軍は敗走した。 |