主な古窯跡
釜床1号古窯跡 |
窯跡は小石原村大字鼓字釜床に所在する。標高355m程の丘陵尾根線上にあり、東西は急斜面、北側は崖崩れのために大きく崩落し、窯体の中央付近には木材搬出のための掘割のため掘削されている。 胴木間は土砂崩れのために残っていないが、焼成室は6室を確認し、立地から判断して6〜7室前後であったと推測できる階段状連房式登窯である。現存長11〜12m、幅2〜2.6mで、奥に行くにつれて幅広くなる。各室の長さは窯尻の6室のみが火床を確認でき、それを含めて2.3m,2・3室は約2m、その他の室は2m前後と考えられる。 各室の奥壁はトンバイを用いて積み上げ、最高で7段、50pの高さで残っていたが通焔孔は確認できなかった。 窯尻背面は地山を大きく掘り込んで排水溝を設けている。また、窯体の左右には上屋の柱穴が検出できた。向かって右に6ケ所、左側は立て替えが行われたようで2ケ所一対で10ケ所まで確認できた。また、各室の焚口は右側にあった。 |
一本杉2号古窯跡 |
一本杉2号古窯跡 | 一本杉2号古窯跡 実測図 |
窯跡は小石原村大字小石原字狐尾868-1に所在する。小石原焼の古い窯元が集まる皿山地区の西口にあたり、村民グラウンド南にある 窯は小石原小学校が建つ狐尾山から延びた標高478m前後の緩やかな細尾根上に築窯されている。隣接地は村民グラウンド・テニスコートに造成されているが、この造成時に窯体部が削平され、窯の存在が明らかになった。北方70mには平成4年度に試掘調査を行った1号窯がある。この窯は同時期で甕・鉢類を主に焼いている。 造成によって昔の面影は残っていないが、村民グラウンドから森林組合事務所にかけては湿地で、直径2mほどの通称ギチ穴と呼ばれる粘土(ギチ土)を掘った穴が多数に見られたそうである。 平成6年度に発掘調査を行い、窯の一部が削平されていたが全長約20mの連房式登窯で胴木間と6焼成室からなることが判明した。焼成室の主軸は地形の関係で窯尻に向かって右(以下左右は窯尻に向かってとする)に傾き、焼成室の規模も1室から6室にかけて大きくなる末広形を呈す。各焼成室の焚口は左側にあり、トンバイは奥壁部のみ用い、天井・壁体は粘土で構築していたようである。通焔孔はほぼトンバイ1段の上に造られ低い。また、窯の傾斜角は10度ほどであるが、砂床(床面)は8〜16度程度の急勾配をもつ。窯尻背面には排水溝が巡り、また、窯体の両側には覆屋の柱穴が不定間隔で左側に7〜8カ所・右側に5ケ所検出された。 物原は窯体の南東側の唐臼谷に続く渓谷の急傾斜地と谷底にある。出土晶は窯体内や周辺および物原から整理箱に80箱ほどあつた。特に4〜5室は水指・片口・小壷・播鉢・甕などが据わった状態で残っており、焼成中に天井が落ちたようである。出土した製品の大半は播鉢で、他に水指・片口・小壼・握鉢・水盤.大甕などがわずかにあった。窯道具は・窯積み時に用いる焼台と播鉢などを重ね焼きに使う胎土目があった。上の原窯などで大量に出土したトッチミは3点、皿状のチヤツは1点のみの出土であった・しかし・砂床面が傾斜した構造であるため、他の窯では見られなかったクサビ形焼台や播鉢などの焼け損じ破片を利用した焼台が窯内から大量に出土した。
操業期問は出土品からみると・伊万里から来た陶工と高取系の陶工によって築窯された上の原窯が1862(天和2)年〜1722(享保7)年と推定されており、一本杉2号窯の出土品には肥前の影響がなく、高取焼の系譜を受継いだものと考えられることから、上の原窯より早く築窯され、開発時には終煙したと思われる。『高取歴代記録』によると「寛文9年(1669)に小石原村の中野と云う所に新皿山が出来しより高取八之丞が移り住む」とあり、このころに開窯したと思われる。 |