松尾城は旧小石原小学校の裏手にある小高い山の頂にあった。戦国時代、宝珠山山城守という者の居域だったという。隣村宝珠山村にある烏嶽城には、秋月氏の一族で郡士宝珠山遠江守という者が在城していたという記録があるが、松尾城主の山城守もその縁につらなる者で、秋月氏の家臣だったと思われる。当時、秋月氏は豊後の大友氏と攻防をくり返していたので、この城も幾度となく戦火に見舞われたことだろう。
1587(天正15)年、秋月氏が豊臣秀吉に降伏して、この一帯は秋月の支配から離れたため、宝珠山氏は、その後は小早川隆景やその子秀秋へと臣従し、1600(慶長5)年、黒田長政が関ケ原の戦いの功によって豊前中津から筑前に入国した後は黒田の支配下となる。
!601(慶長6)年、黒田氏は福岡本城の築城と同時に国境防衛のため6カ所に出城を設け、それぞれ重臣を配して守備につかせた。このとき松尾城主3700石に抜擢されたのが中間六郎衛門統胤である。
彼は現在の耶馬溪から町にある一ツ戸城の城主だったが、1587(天正15)年、秀吉の九州平定後、黒田官兵衛孝高(如水)が豊前六郡の新領主となって入国すると家臣となった。
当時の豊前六郡の土豪たちは、黒田氏の入国に反対し、根づよく反乱をくり返したので黒田氏は領内の支配には苦労していた。しかし土豪の一人だった中間統胤は、新領主である黒田孝高を助け、忠節を尽くしたので孝高の信任が厚く、統胤に黒田姓を授けて一門扱いとし、黒田六郎衛門と称させた。
黒田氏の筑前入国にあたって中間氏は一族郎党とともに移住してきたが、'豊前豊後の大事な国境線に、隣国の地理や事情に明るく、しかも最も信頼のおける中間氏を配置したのは偶然のことではない。
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中間忍可の墓 |
中問統胤は、1615(元和元)年、幕府の一国一城令によって松尾城が取りこわされるまで約14年問の城主だったが、その間大きな紛争もなく平和な日々を送ったと思われる。親友の益富城主、後藤又兵衛は三里の道を訪ねて歓談したという。数年前まで残っていた。後藤ケ橋は、そのときの名残であろう。
統胤の父は忍可(民可ともいう)といい、隠居料として百石を支給されていた。隠居地の跡は大字鼓東のお宮近くの畑と思われる。石垣のそり方が武家屋敷の雰囲気を感じさせる。統胤は先祖伝来の土地である耶馬溪から一ツ戸の地を捨てさせた老父母への孝養のため、旧地によく似た地形の東を選んで住まわせたものだろうか。統胤の在城中に二人ともこの地で死去している。
二人の墓は、高木神社境内入口の大烏居前の草むらに苔むして並んでいる。長い風雪にさらされ、風化がはげしいため正面中央上部の梵字以外は判然としないが、かすかに「忍可居士」の文字と、妻の墓石からは「慶長八年」の文字が判読できる。
松尾城がこわされて約200年後の1815(文化12)年、秋月藩士土井正就が測量製図した松尾古城図を甘木市文化財調査報告第17集で見る二ことができた。
現在は杉林だが、当時は竹林で見にくかったと説明している。この図を元に現地を比べ見ると、ほとんどそのまま残っているとみてよい。掘切の位置、数、石垣の崩れ具合までぴったりである。わずかながら篠竹も生き残っている。 |
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松尾城跡全体図 (1/2000) |
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