高 鼻 城 跡
高鼻城跡は鶴地区の内字釜床の北側にあり旧豊前国境の峰より派生した小高い標高約500mの山上に位置する。 頂上は2段に別れており「本丸」長辺南北に90m・幅平均17mあり約1反半はある。北側の斜面を12mほど降りると幅4mの堀切を挟んで長辺64mの「二の丸」があり約8畝位の平地がある。その北に幅6軸の堀切があり狭い尾根を深く掘割ってある。北面の防備の為に設けたものと思われる。 城跡の全長は南北230mあり、裏側東斜面は花園川方向に35度で流れ、又東西側は40度の急斜面で下に大肥川の上流が南に深く流れ、自然の要害をなしている。また本丸と大肥川の中間に5畝位の中段があり木柵や逆茂木を設け防禦を厳重にしたところであろう。南面尾根には3条の堀切がある。 高鼻城は『星野家譜』によると野上外記左衛門尉の城であったと記されている。1333(元弘3)年4月星野胤親に征服される迄は鼓谷の豪士であり、この地方を治める為の自衛の砦であり、山城である為日頃の生活には不自由であり家臣を養うだけの屋敷も必要である。城主は城の麓に里城(館)を造り普段はそこで生活の為の生産に従事していたであろう。 その様な考え方に立つと城主の館は地形からして、今の高取焼窯元の屋敷あたりではなかろうかと推察する。火急の時には砦に篭もり守備に付く為のものではなかろうか。30人から50人位の武士を備して居たものであろう。 また、1514(永正11)年星野家の上座・下座の領地と秋月家の筑後側に有する領地との交換により秋月氏の配下となるが、1587(天正15)年豊臣秀吉九州平定の時、秋月種実が征服され本城の古処山城を始め配下の属城の全部を破棄する覚書を差出し日向高鍋3万石に移封され、代わりに小早川隆景の配下となる。 また、1601(慶長6)年黒田長政が豊前中津から国替えにより入国し家臣中間六郎右衛胤親が小石原松尾城に配属され小石原・鼓・宝珠山・福井・赤谷を支配下におき3300石の鮭として治める事となった。
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