(天台宗)

山門と仁王石像(文化5年・1808)


本堂
久留米市宮ノ陣町宮瀬戸斤在。山号は護国山、本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば天平9年(737)聖武天皇の勅願によって建立された筑後国の国分寺で、筑後川北に当寺(法華減罪寺 尼寺)を、川南の国分町に金光明四天王護国寺(僧寺)を置いたが、後世合併して護国山国分寺と称した。天平勝宝元年(749)10月、高良山別当宣灯の弟子宣慶が住職となり、以後高良山の末寺となったという。しかし、奈良・平安時代の筑後国分寺は、僧・尼寺とも市内国分町にその跡を留めているので中世のある時期に移転再興されたものであろう。暦応2年(1339)に足利尊氏、慶長年間(1596〜1615)に田中吉政がそれぞれ再興し、安永6年(1777)7代有間頼僮は筑後観音霊場の第十一番札所を定めた。明治2年(1869)廃仏稀釈の結果高良山明静院住持霊徹は当寺に移って5人扶持を与えられた。山門脇の仁王石像、元三大師大聖歓喜天(聖天)などは、この時明静院から移されたもの。元三大師・歓喜天は、今日も厚い信仰を集めている。高良山愛后社から移された地蔵来迎図板碑(県指定文化財)、その ほか如意輪観音像・鬼子母神像・両界曼茶羅など高良山関係の遺宝を多く蔵している。


板碑の版画













国分寺の地蔵来迎図板碑(県指定文化財)
●考古資料昭和33年4月3日県指定

板碑は、高さ約1mの硬い板状自然石の面を利用し、左右下の三方を長方形の輪郭で囲ん
だ中に、地蔵菩薩釆迎像を線刻したものである。地蔵尊は右手に錫杖をとり、左手に宝珠を捧持
するが、左斜め向きの前傾姿勢であるところに特色が見られる。袈裟も柄衣の袖も裾み、踏み
分けた蓮弁も、宝珠の火炎までが前方になびくさまは、いかにも動的で、一陣の風と共に来迎し
往生者の前にたちどまる地蔵尊の姿を見事に表している。この板碑が明治2年(1869)の神仏分離
に際し、高良山愛宕神社の奥の院から国分寺に移されたものであることは、「筑後将士軍談」「太
宰管内志」等の記事から既に指摘されていたが、もともとは砥園山古墳の上に建てられていたもの
のようである。碑銘より、正平22年(1367)9月に建立されたことが判る。



高良太公画像
(玉垂宮例講御正躰)
(寛永4年・1627)
元三大師(天台宗第十八代座主)
天台座主として、平安時代の末に、
荒廃した比叡山を復興し、僧侶の
規定を整備するなど、天台宗をふるい
興すと同時に、奈良仏教の学僧と
討論して、誰もが仏になれるとする
一乗仏教を確立した.。


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鬼子母神像 如意輪観音像 角大師御影 不動明王像(元亀三年・1572)



金剛界八十一尊曼茶羅 本堂内仏
野仏群(人々の願いをこめた
仏像がたくさん祀られています。)



国分寺ご案内

久留米市宮ノ陣町宮瀬66