三池農業高校前を過ぎJR吉野方面が
三池街道です。 |
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下方(したかた)屋敷)
JR吉野駅先の踏切を渡ると下方屋敷
に出る。
下方、上方(うえかた)とはもともと一つ
の呼び名であったが人口の増加により
二つに分かれた分忖地名です。
分村地名は、東西、南北、上中下、
一二など付けて呼ぶのが多い。 |
国道(208)を斜め(十字路)に行き
西鉄の踏切を越しますと左手に
倉永小学校「が有ります、この辺り
を中村と言います。
中村とは元村、本村、と同じ意味
で親村から子村が四方に分かれた
場合のその中央に有る村の事です。 |
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H倉永
倉永と言う忖名は古くは鎌倉
時代にさかのぼります。
文禄四年(1599)豊臣秀吉が立花宗茂
(初代柳川藩主、三池藩主高橋直次兄)
に領地として与えた朱印状の中に書か
れた村名に「倉永村1169石59」と有り
ます。
クラは蔵、倉、鞍闇、暗等の字をあて「谷、
がけ」の意味で此処は崖地が長くつづい
ている山地で、「くらがながい」と呼ばれ
ていて後に「倉永」の字をあてたと思いま
す。
左の三叉路を右に西鉄の踏切を渡っ
ていくのが三池街道です。 |
市場山下
西鉄渡瀬駅(写真の外直ぐ左)の裏辺りを言います。
鎌倉時代に筑後地方でもっとも古いと思われる「市」が三箇所有りました。其の一つが「倉永の市場」です。
他は瀬高下庄の「芳司市場」と高田町矢部川とは江川の合流地点の「山裏市場」です。
現在地名として残っているのはこの倉永の山下市場だけです。
其の頃の港は自然の潟地の葦などが生えている場所へ、潮が満ちてきたときに小船を着けました。
倉永市場には天草、島原方面から海産物を、倉永よりは、米、麦、野菜、焼き物(黒崎焼、二川焼を積んでいました。
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I干渡(ひわたし)橋
三池街道は岩本番所から出発して、三池の町を通り
久福木、橘、吉野、倉永を経て此処干渡橋で終わります。この干渡橋が大牟田市と高田町の境界です。
干渡の意味は、昔橋がなかった頃は、潮が引いたときにはだしで渡っていたのでこのような地名になりました。
倉永にある火渡、今山の日渡も同じ意味です。 |