(大石武楽碑〜十三仏)

銀水小学校を過ぎT字路を右へしばらく行くと、当時日本一と言われていた、谷精一郎を「突き」で破り、一躍有名になり、天保年間(1830〜1843)では大石の右に出る者はいないと言われた、大石神影流の開祖(柳川藩宮部出身)大石武楽の顕彰碑が宮部と久福木の境に建て有ります。

G (左)大石武楽顕彰碑約東(右)へ200mで道場跡右)奥が早馬神社

早馬神社境内(東は写真左方向)此処で日本一の剣客が練習したのだろうか、意外と狭く感じた。



道場跡より東へ約300M右の岡に剣壕
が眠る墓所が有る。


現代的な納骨堂も有り 、かたわらにたたずむ
大石武楽の墓。
三池街道に戻り、道を北に通り三叉路を
左に行くと銀水橋に出る。


下左)白銀川にかかる銀水橋、上流左の
木々の有る所は橘中学校。橘の地名は
豊永村と尾尻村が合併して出来た名前で
比較的新しい地名で、地系との関わりで
呼ばれてきた地名ではないようです。
下右)元村の熊野神社(橘より北へ10号
線を過ぎて左側)元村の地名は、其の村
の所有者(領主)の家が合った所、もとの
村、本村の事です。
神屋原の八幡宮
「三池郡誌」の銀水村神屋原の項に
「武内宿禰が九州観察として三池郡
に入り、黒崎に船を寄せて、この吉
野の地、神集原(かみわらばる)に
陣す」とある。神集原は後に神屋原に
なると・・・」と記されています。が此
れは、自分たちの村を誇る為に後世
の人が作った話しです。
ハルは開く、開墾するの意味です、
この地を開いてそこに神を祭った事
から来た地名と思います。

八幡さんは元村より直進し交差点を
三池農高の方へはいると直ぐ右側に
あります。

神屋原八幡宮のの直ぐ先に有る十三仏
南北朝に成立した信仰で、年忌追善に
際して初七日から三十三回忌までを、
十三回に配当して供養する仏、菩薩の事

又この辺りに十三塚が有り、この十三仏
の信仰から来た物だろうと思います。
現存する塚は現在数個だけです。
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