矢部村の概要

矢部村は、大分県、熊本県に接する福岡県の最東南端に位置し、東西約十一・ニキロメートル、南北十一・四キロメートル、総面積約八十・四六平方キロメートルのまとまった形をしている。四方を峻険な山岳に囲まれ、山紫水明の地であり、また古い歴史の息づく村である。

村内は阿蘇火山帯の一部をなし火山岩におおわれている。火山岩地帯に源を発した矢部川の清流は、いくつもの支流を集めて県営日向神ダムにそそぎ込み、南筑後一円の肥沃な平野をうるおしている。

本村は、四方を峻険な山岳に囲まれているため、内陸的気候を帯び、四季や昼夜の温度の較差も大きく、西部の平地にくらべて、気温が常に二〜三度低い。雨量は比較的に多く、三日に一日は雨が降るといわれるように多雨地で、樹木の成育に適している。

産業は、林業が盛んで、かつては松、杉、桧、欅、雑木の木材や木炭、椎茸、茶、楮(コウゾ)などの特産物を生産していたが、時代の流れで現在では杉材が大部分を占め、木炭製造は影をひそめ、杉材、椎茸、茶、石楠花、栗やキュウリ、いんげん、苺などの高冷地野菜、リンドウなどの草花などが栽培されている。しかし、本村は耕地が狭いため、経営規模が零細で、主産地を形成するまでに至っていない。

一時は林業の好況や鯛生金山の隆盛などにより村も活況を呈していたが、木材価格の低迷、金山の閉山、日向神ダムの建設などにより、急激な過疎化に見舞われている。

交通は、山間地のためカ―ブや急坂が多く、不便である。村の東西を国道四四二号が貫通し、それから支線が山間部の集落に通じている。

村民の気風は、南北朝時代に両征西将軍宮に供奉した五条氏の家臣団の末裔として気位が高く、純朴、温良で礼儀、親切な心づかいが誇りとして生き続けている。しかし、閉鎖的な一面も根づよく社会の急激な変化に対応する主体性に欠く点も見られる。

また、明治初期に早くも小学校を創設した八女教育の発祥地として、教育への関心や期待も大きい。古い伝統にはぐくまれた民謡や郷土芸能などの民俗も伝承されている。

位 置

自然的位置

矢部村の位置を経緯度上から見ると、北緯三三度九分、東経一三〇度四九分に位置する。参考までにほぼ同緯度の地をあげてみると、日本では四国の高知県室戸岬付近に相当し、これを世界に求めると、アジアでは中華人民共和国の華中の少し北、インドのカシミール、スリナガル、アフガニスタンの首都カブール、中近東ではイラクのバグダッド、シリアのダマスカス、アフリカでは北部地中海沿岸、北アメリカでは西海岸のロサンゼルスあたりになる。

経度上では、北は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とソビエト連邦の沿海州との国境付近であり、南はオーストラリアのダーウィン付近にあたる。

人文的位置

矢部村は、四方山に囲まれ交通不便なため、古来から他地方との人的、物的交渉が少なく、経済、社会、文化の面でもやや特殊な景観を表わしている。

しかし、仔細にわたって観察すると、自然の城壁である山岳地帯にも村民の精神力、生活力、文化力は、その偉大な自然の力をある程度まで制御し、峠をうがって道を通じ、八女郡、浮羽郡、大分県、熊本県などと経済的、社会的、文化的交通、交流を図ってきたのである。むしろ八女郡内との交流よりも、他郡、他県との交渉関係が密であったことを発見するのである。特に著しい例としては、婚姻、養子縁組み等によくこの現象をうかがうことができ、物資の取引きについても大分、熊本との交易が盛んであった。

地 勢

森羅万象、万物は生々流転する。不動の象徴とも思われる大地も悠久の時の流れを通して観察すると、変転きわまりない一片の土塊にすぎない。内力、外力あくなき力は、地殻を一時も一刻も現状の姿のままには止めておかないものである。

九州は大昔には、日本列島の外帯いわゆる紀伊山地、四国山地の連続である九州山系と内帯である大分と緑川を連ねる中央線以北の筑紫(背振)山系を中心とした二つの島に分かれていたと考えられている。当時この二つの島の間には、周防灘と有明海とはつながっていて、現在瀬戸内海に大小の島々が散在しているように、多くの島があったことが、古期岩類の地が北部九州と南部九州との間に点在していることによって証明されている。

その後、阿蘇を中心とする久住、由布、雲仙、多良等の大山が北部九州の地に出現した第三紀末期から第四紀にかけての火山活動が大昔の姿を破壊してほぼ現在の形になったといわれている。

八女地方は、瀬戸内海地溝帯の北側に横たわる筑紫山系の南端、水縄山塊の一部である。もとこの地方一帯は、秩父古生層におおわれていたが、白亜紀から第三紀に移る間に大きな地殼変動が起きて、北部九州の地には所々柝(亀)裂が走り、地溝が生じた。ここに第三紀古期に貝の化石や石炭層を有する海成、陸成の諸層が交互に沈積したのである。

星野村東南部に見出される木葉石や石炭層あるいは黒木町豊岡、広川町下広川の石炭層(亜炭)は、この時代に生成されたものである。

第三紀新期に入ってから砂岩、頁岩などの浅海および陸成の堆積物が生じた。黒木町豊岡台地にあらわれている第三紀層は、この頃に生成されたものである。

第四紀になって起こった火山活動はきわめて活発であった。今日の高千穂峰となり、阿蘇山となり久住山、多良岳、雲仙岳となって過去の面影を残している。この火山活動は、複輝石安山岩から始まり、角閃安山岩、雲母安山岩、含角閃安山岩、含橄欖複輝石安山岩へと進んだ。これに伴って著しい地盤の昇降運動が起こり、直線状の谷や複雑な地形を形成したのである。

水縄山塊の東部や南東部に千メートル内外の山岳が連なり、最高点は釈迦岳(一二三一メートル)で、御前(権現)岳(一二一一メートル)国見山(一〇一八メートル)三国山(九九四メートル)八方岳(一〇五二メートル)酒呑童子山(一一八〇メートル)などの火山岩峰が屹立して、福岡、大分、熊本三県にまたがり、高くそびえ立っている。

これらの火山岩峰は全く開析されて往古の面影はなく、筑後川、矢部川の縦谷にのぞんで急斜をなしているが、谷底の所々には平坦部を残している。谷の密度は割合に大きく、彫刻もまた細かく、一旦壮年期に達した川は、急崖、峡谷をなして盛んに回春しつつある。谷は十分に削られて屈曲した大きな山麓線を作り、この崖面に沿って集落を形成している。この安山岩高地と秩父古生層との接触するところが景勝地日向神峡である。

矢部川の主な源流は、釈迦岳、御前岳の水を受けて流れる御側川、樅鶴川と猿駈山、三国山、国見山の麓から流れ下る渓流と合して矢部川の本流となり、村を二分して東西に貫流している。矢部川は下刻作用が激しく、特に上流部では侵触が激しい。流水の速度は早く、河床にはほとんど砂礫を堆積せず、至るところに床岩を現わし、矢部村、黒木町大渕にかけて峡流、甌穴、千畳敷の岩床を呈している。

しかし、日向神ダムの建設によって、その景観は失われている。

地質と地形

御前岳・釈迦岳

矢部の地質の特徴は、筑紫溶岩(火成岩)が広い範囲に分布していることである。この筑紫溶岩は今からおおよそ二百万年前、新生代第四紀洪積世(更新世)の初めの頃の火山活動により地下からの噴出物できた凝灰角礫岩とその上を覆うように噴出してできた灰色または灰白色をした両輝石安山岩溶岩、角閃石含有両輝石安山岩溶岩からできている。
 御前岳、釈迦岳、三国山、国見山等の矢部の山なみもこの筑紫溶岩の噴出で形成されたものである。

筑後変成岩

秋伐、日出、下御側、日向神ダム周辺部にかけて筑後変成岩が分布している。これは、今からおおよそ二億八千万年前、古生代の二畳紀〜石炭紀の頃生成されたもので、黒色片岩を主とし、珪質片岩、砂質片岩、緑色片岩をレンズ状に挟在しているのが特徴である。

城山(高屋城)

城山は高屋城とも呼ばれ流紋岩から形成されている。
 その一つは、黒雲母流紋岩である。この流紋岩は城山頂上部に限定され、分布範囲及び量とも小さい。噴出したのは筑紫溶岩と同じ洪積世(更新世)の頃といわれている。

二つ目は角閃石黒雲母流紋岩である。この流紋岩は矢部村の南西部の根引峠付近に露出している。北東方向に顕著な流理構造が見られる。灰白色、角閃石斑晶を含み、外観からは日向神溶岩に類似するところもあるが、むしろ大分県の万年山流紋岩に似ている。

日向神

筑後変成岩の基盤(結晶片岩)に貫入(地下のマグマが岩石の割れ目に入り込むこと)して形成されたのが日向神溶岩(両輝石含有角閃石安山岩)である。この日向神溶岩は日向神ダム北西部のみに分布し、ダムの護岸の一部をも形成している。日向神峡の岩石は、周囲の結晶片岩が風化し崩壊・流出した後に、貫入によってできた日向神溶岩のみが残留して形成されたものである。また、貫入時の規模の大きさや風化の違いから蹴洞岩、天戸岩、屏風岩等の呼称が与えられ、すばらしい景観を呈している。

日向神溶岩は安山岩で、石基と呼ばれる灰白色か灰色の結晶していない部分に、斑晶と呼ばれる長さ15oもある角閃石や斜長石(白色)の大きな結晶が点在している。斑晶として輝石(暗緑色)と角閃石(黒緑色)が多いことから輝石角閃安山岩とも呼ばれている。

阿蘇溶結凝灰岩

この岩石は矢部川河岸及び谷間の低地に多く分布している。特に宮の尾橋、中村、矢部中学校裏、石川内等国道四四二号の北側に急崖をなして点在しているのは目を引く。

また、この岩石は阿蘇泥溶岩とも言われ、一般には「灰石」の名で知られている。今からおおよそ三万年前阿蘇山の火山活動によって形成されたもので、有名なのは八女市の長野石(灯篭石)がある。

矢部に分布する阿蘇溶結凝灰岩は長径一四〜一五cmの黒耀石レンズ及び安山岩の礫を多量に含むのが特徴である。