高山畏斎の墓 |
藩政時代の上妻、下妻地方は、合原窓南、高山畏斎の影響を受けて向学心が高まり、幾多の学者、教育者を輩出したが、その源泉はいうまでもなく塾教育の発展によるものであった。
合原窓南は宝永六年(一七〇九)以来久留米藩の儒臣として仕えていたが、享保の頃一時官より退いて上妻郡馬場(八女市)に隠棲した。窓南は崎門学(山崎闇斎の学派)を奉じ、浅見綢斎(けいさい)の直流として碵学(せきがく)の聞こえ高く、隠棲後も門を叩く者には親しく学問を授けた。その後、その四隣には学問を志す者がふえ、将来の塾発達の素地が作られたのである。窓南によって開かれた学問の窓は、さらに安永の頃窓南の門人広津藍渓(らんけい)、その後宝暦の頃、高山畏斎の出現によってさらに押し広げられ、この地方の教学興隆が実現された。
高山畏斎(金次郎)は上妻郡津江村(八女市津ノ江)出身で、幼少より苦学力行し、三十余歳で大阪の儒学者留守希斎(るすきさい)に学び、帰郷後居宅で崎門学を講じた。その学風は留守希斎の教えを奉じ、学問の目的を上は生命の理に通じ、下は日用の務めに達し、心眼を開いて古今の変、治乱の機を十分に認識し得べきものとし、いたずらに詞章末節を美しくすることのみにかかわらぬことを戒めた。
ここに学ぶ者は郡下はもちろん広く筑後、さらに国外からも参じ、一大学塾を形成した。やがて天明三年(一七八三)には久留米藩に招かれ、その学風は一藩を代表する者となったが、惜しくも翌四年に病没した。しかし彼の学風は、死後絶えることなく、むしろ後継の門弟によってさらに高揚された。
畏斎の門弟は彼の没後も師の遺徳を追慕し、その教えをなお後世に伝えることをはかって、畏斎の墓所近くに一学堂を建てた。これが仙台の儒学者志村東蔵によって名付けられた継志堂である。黒木の古賀調山(貞蔵)津ノ江の牛島毅斎、新荘村の後藤濯来(たくらい)(要助)今村竹堂、三潴の熊本原仲らが交代で会主となって畏斎の学風を後進に伝えた。
その後畏斎の遺子茂太郎が成長するに及んで、茂太郎が堂主となって教授した。その死後は本荘星川らの推挙によって牛島栗斎(りつさい)が堂主となった。畏斎の没後、上妻、下妻地方に多くの英才が生まれているが、その大部分は直接または間接に畏斎の学風の影響を受けていると言えよう。
継志堂は、正にこの地方の教学発展の一大中心地ともいうべきもので、この地方を訪れる諸国の文人墨客の来訪はひきもきらず、天明七年(一七八七)に来遊した仙台の碵学志村東蔵は、門弟の旧師に対する追慕の情の厚さに感じ、継志堂記を記している。寛政二年(一七九〇)には安芸(広島)の唐崎八百道が来訪し、翌年には烈士と称された高山彦九郎も来て、ともに継志堂の由来に感激したという。
畏斎の門人達は、その後郡内各地に塾を設け、継志堂とともに崎門学派の学風をひろめた。その主なものに、八幡村の会輔堂(今村竹堂)黒木の楽山亭(古賀貞蔵)津ノ江および忠見の三省堂(牛島毅斎のち川口省斎)がある。そのほか古くは合原窓南の門人隈本新平、畏斎の門人後藤要助(濯来)がともに塾教育にたずさわったと伝えられている。
継志堂とともに数多いこの地方の塾の中で、著名なものに本荘星川の川崎塾がある。
本荘星川(一郎)は上妻郡山内村(八女市山内)の出身で、はじめ高山茂太郎、今村竹堂の両師について崎門学を修めたが、文化六年(一八〇九)文化八年(一八一一)の二度にわたって江戸に上り古賀精里に師事してからは朱子学を考究し、筑後地方に朱子学を発展させる緒を開いた。文化十一年帰郷して(一八一四)から近隣の子弟の教化にあたったが、星川の名声を聞いて入門するものが多くここに川崎塾が開かれた。
星川の教育は経学の研究に心を尽くすのみならず、礼楽制度に関する認識を高めることを重視した。星川は中国の夏殷周(かいんしゅう)三代の基は六芸(りくげい)の習得による人物養成にあったことを説いて、我が国においては六芸に代わる文武併習の要を力説した。星川の教育論は、のちに藩校に出仕したときはもちろん、川崎塾においても実践され、当時の塾教育としてはめずらしく文学修業とともに武芸修業も課した。
その後星川は藩に招かれ、江戸に上ることもあって十分川崎塾を監督することができなくなったので、一時門下生の一人牛島栗斎にその監督を命じた。しかし、星川の藩における責務がますます重くなったので、弘化三年(一八四六)久留米に移転せざるを得なくなり、ここに川崎塾は廃止され、これまで塾を預かっていた牛島栗斎は継志堂を主宰することになった。
明治二年維新政府樹立後、教育の必要性が痛感されて教育施設が要望されたとき、星川の甥本荘武八郎、宮園万造によって川崎塾は再興され、朱子学を中心とする星川の遺風は継承された。しかし、この塾の存続期間は短く、明治四年には廃絶の止むなきに至った。
しかし本荘星川は、高山畏斎なきあとの郡下および久留米藩内の儒学教育興隆に資した功績は大きく、とくに従来強かった崎門学に対して純粋の朱子学を栄えさせたことは、その教育力の大きさとともに最も大きな功績といえよう。そして星川の学燈は、さらに高橋嘉遯、磊々堂牛島顕蔵、牛島栗斎、安達漆原らによって継承され、筑後地方における文教推進の一主流となったのである。
その他上妻・下妻地方では、純朱子学を講じる塾として高橋嘉遯が継承したのちの会輔堂、小川柳が主宰した北川内村の琢成堂、牛島顕蔵の主宰する福島の磊々堂などがあった。
修文館のあった光善寺 |
石門木屋徳令の肖像 石門の書 |
黒木の奥、木屋の光善寺に住した石門木屋徳令(藐姑射石門(はこやせきもん))も、この地方を代表する教育家で、塾を修文館という。
石門は日田に咸宜園を創設した広瀬淡窓に師事すること十一年におよび、その学徳は淡窓門下の十八才子の一人に数えられるほどであった。その教育は淡窓の敬天思想にさらに真宗の教義とする慈愛を強調し、善の実行の尊さを説いた。そして自らその徳を実行して門弟を教化した。木屋村は山間のへき村であるにもかかわらず、その徳を慕って門を叩く者が非常に多く、幾多の英才を輩出した。しかもその教育に従事した期間は実に四十二年間に及び、また単に門弟の教育に止まらず、近郷一円の住民に対しても教化が及び、住民から敬慕された。いわゆる学問の空誦を排し、人格形成を志した真の教育家として特記さるべきものである。
石門の門下生には特に僧侶が多いが、門人の一人蒲池石言は明治時代の教育家として活躍した。また、矢部村の善正寺住職で、江碕済を扶けて矢部小学校の訓導として活躍した田中智旭も修文館石門門下生であった。善正寺には修文館で学んだ智旭の学則、日課など筆写した貴重な記録が残っており、当時の修文館のようすがうかがわれる。なお、善正寺には智旭の蔵書が数多く保存されている。
平成三年七月一日から三日間石門先生百回忌が、光善寺でしめやかに行われ石門の遺徳を偲んだのである。
幕末のころ水田村(筑後市)に蟄居(ちっきょ)を命ぜられた久留米の水天宮神官真木和泉守保臣が教授した山梔窩も特色ある塾である。
真木保臣は久留米水天宮の神官であり、勤王討幕運動に殉じた烈士である。保臣は国学に通じ、さらに会沢正志の新論に感激してからは水戸学を学び、勤王の志を燃やした。嘉永の頃からは直接勤王運動に身を投じ、しばしば藩の咎を受けて幽閉された。この間水田村の弟で水田水天宮神官大鳥居信臣宅に閉じこめられていた時、山梔窩(くちなしのや)を開いて青年を教育した。その教育が尊王の大義を明らかにし、国家枢要の人物を育成することを目的にしていたのはいうまでもない。
経書、史書のほか剣道、相撲を課して身体の錬磨をとりあげているのも、こうした国家重要の時に処すべき人物の育成として特徴のあるものといわなければならない。
田中智旭が学んだ修文館の学則(智旭蔵書) |
なお真木は、元治元年(一八六四)天王山において自刃した。
なお、この地方では国学系統の塾として著名なものは見当たらない。
豊後日田の咸宜園は、廣瀬淡窓によって開かれたが、その存在は全国的に知れわたっている。淡窓の志は、旭荘、青村、林外らによって継承され、約九十年の間に幾多の人材を養成してきた。筑前、筑後の地は距離的にも近かったので咸宜園に遊学するものが多く、宜園門人帳を見れば、その人の入門年月日、住所、氏名などを知ることができ、興味深い。
八女地方では、享和元年(一八〇一)淡窓二十歳から、明治四年(一八七一)に至るまで、四十二名の名前が見えるが、石門徳令は文政四年(一八二一)五月十八日に入門している。
釈教受(竹下五郎右衛門)の墓(笹又) |
当時庶民教育の代表的なものに寺子屋があった。本来寺子屋は、寺院で行われていた初等教育をさすものであったが、僧侶のほか武士、浪人、神官、医師などが近隣の子どもを集めて、「読み、書き、そろばん(算術)」などを教授したのである。
寺子屋教育の特色は、密接な師弟関係から生まれる訓育であった。長幼の序、師弟の礼譲、友愛、信義についての「しつけ」の厳しさは、当時の社会道徳を高揚するうえにも大きな力となった。
庶民の中に生まれ、庶民の力で育成された寺子屋教育は、かえりみれば方法は稚拙ではあったろうが、その本質は今日の初等教育の理念に合致するもので、正に日本における初等普通教育の先駆をなすものであり、これが明治以降の小学校教育に与えた影響は、非常に大きいものがあった。
矢部村では、笹又で、竹下五郎右衛門が寺子屋を開いて、子弟を教育している。竹下の出自も塾の場所も塾の様子も詳らかでない。笹又部落の山の麓、小川、平田家の共同墓地の裏手にひとつの墓石がある。笹又がダムに水没するので、ここに移転させたという。
その墓石の表面に「釈教受」裏側面に「俗名竹下五郎右衛門」左側面に「謹報、門弟六十余人」、右側に「明和元年十二月二日」とある。竹下五郎右衛門には六十余人の門弟があって、明和元年に死去されたので、門弟が先生の遺徳を慕ってこの墓を建てたものと思われる。
明和元年といえば一七六四年である。今を去る約二百三十年前の宝暦年間に、この草深い矢部の地にすでに寺子屋が開かれていたことは注目すべきことである。
平成三年八月、矢部村生涯学習のグループ粋養教室生の奉仕作業により、笹又の水天宮境内に墓碑を移転し保存している。
彼の出自や業績を明らかにすること、この墓碑を村の文化財として大切に保存することは、村民の大切なつとめである。
また、飯干の庄屋末継宗八が荷物改めと質屋をかねて寺子屋を開いていたという。
明治五年学制がしかれてからは、これまで塾教育にたずさわっていたもののなかから、新しい初等教育、中等教育の教師として公立学校に参ずる者が多く、その人たちが新しい教育の推進力となった。
福岡県では滝田紫城、海妻日蔵、粕屋権六、三潴県では武田巌雄、吉富復軒、宮園万造、樋口和堂、江崎巽庵(済)、宮本自得、池辺節松、小倉県では高崎祐三、谷頭有寿、緒方久豊らが塾教育のみならず新しい学校教育にも貢献した人々である。
なお塾主が小学校教師に転ずるとき、塾の施設はまだ校舎をもたない小学校に転用されたのが多かった。
一方学制以後私塾を経営する場合は、国民教育の基準を整理するため、文部省の許可を要するようになった。文部省は学制の施行に先んじて明治五年三月布達第六号により私塾の取り扱い方を示したのである。
我が国の初等教育が現在の小学校のような近代的な学校制度のもとに行われるようになったのは明治時代からであって、今からおよそ百年ほど前のことである。それまでは初等教育は寺子屋や私塾で行われていたのであって、近代的な学校の形態を備えたものではなかった。
明治政府はその成立と同時に近代国家の基礎は教育にあるとして、学校教育の普及と振興に大いに力を注いだが、その中で小学校の設置には特に努め、まず明治二年二月五日各府県に示した「府県施政順序」の中に「小学校を設くる事」の一項を設けて小学校教育の方針を示し、さらに翌三年二月には「大学規則并中小学規則」を公布した。この規則は、初等教育に関する最初の規定であり、学校制度を大学・中学・小学の三段階に分けたものである。
しかしながら、近代的な小学校制度の基礎は明治五年に公布された「学制」によって置かれたといってよいだろう。
明治政府は、明治四年七月十八日文部省を設け、全国的な学校教育の制度の確立と内容の整備に着手し、その布告前文の「邑(ムラ)二不学ノ戸ナク、家二不学ノ徒ナカラシメンコトヲ期ス」という方針にもとづいて、翌五年八月基本的な教育法規として「学制」を公布した。この「学制」は、我が国の近代的学校制度の基礎をなすものであって、学区、学校、教員、試業(授業)、海外留学生、学資の六項に関する条項からなる膨大な規定ではあるが、そのうち主要な部分を占めているのは小学校に関する諸条件である。今日の教育基本法、学校教育法にあたるものといえよう。
「学制」によれば、全国を八大学区に分け、一大学区を三十二中学区、一中学区を二百十小学区とし、各小学区に小学校を一校設けることとした。したがって全国では五万三千七百六十校の小学校を設置することと定めた。そして小学校を尋常小学、村落小学、貧人小学、小学私塾、幼稚小学の数種としたが、尋常小学以外はほとんど設けられなかった。すなわち尋常小学が小学校の普通の形であって、これを下等小学四年上等小学四年計八年の課程とし、下等小学は六歳から九歳まで、上等小学は十歳から十三歳までの一般男女児を修学させるべきものとした。
このように国民の初等教育機関を小学校だけの一種類とし、教育の機会を均等に与えたことは、当時の諸外国の学校制度と比較して画期的なものであった。
この計画はきわめて大規模なものではあったが、政府と国民の熱意と努力とによって学制公布後わずか三年後の明治八年には、二万四千二百二十五校の小学校が設置され、児童数は百九十二万六千百十二人に達したのである。
小学校の経費は各小学校区で負担することを原則とし、授業料を取ることができることとしたが、一方、地方民の負担を軽減するため国庫から「小学委託金」として補助金を交付する制度を設けている。
このように「学制」によって近代的小学校制度は一応確立し、また国民の理解と努力によってかなり普及したが、当時の地方事情から見ると、「学制」の掲げるような小学校を完全に設置して運営することはなかなか困難であったので、明治十二年九月に「教育令」を公布して実情に即する制度に改められた。
「教育令」では、従来の学区制を廃止して町村ごとに公立小学校を設けることとし、修業年限も学制と同じく八年としたが、土地の事情によっては四年まで短縮することができ、しかも一年のうち四ヵ月以上授業すればよいこととした。また学校以外の場所で教育を受けてもこれを就学とみなすなど土地の実情に応ずる自由裁量の余地のあるものとした。ところが、そのためにかえって公立小学校を廃止するなど立法の精神に反して後退の傾向がでてきたので、翌十三年十二月に「教育令」を改正して町村に小学校設置を義務づけ、就学の督励を厳しくした。
明治十四年五月四日には「小学校教則綱領」(今の学校教育法にあたるか)を公布し、学年の編成を改め小学校を初等科三年、中等科三年、高等科二年の三段階に分け、初等科三年を子弟の通学すべき最低年限とした。
このようにして明治五年の「学制」によって創設された我が国の近代的小学校制度は、明治十三年の改正教育令を経て次第にその形式を整えられてきたのである。
明治二十二年大日本帝国憲法の発布、翌年帝国議会開設など明治維新以来の政治の改革が一段落を告げ、ようやくわが国が近代国家としての形態を整えるに及び、国家統一発展の基礎は教育にあるとして、教育を国家的に統一して普及、発展させるべきであるという考えが強くなってきた。特に明治十八年、初代の文部大臣に就任した森有礼はこのような考えが強く、就任早々教育制度全般の改革に着手し、特に小学校制度の改善に関しては他の諸学校の基礎をなすものとして重視し、翌十九年四月九日「小学校令」を公布した。
同令によれば、小学校を尋常四年、高等四年の二段階に分け、尋常小学校、高等小学校の名称をはじめて使用することとした。この名称は昭和十六年国民学校制度の実施に至るまで五十数年にわたって使用されたものである。なお、同令では小学校の設置区域および位置は、府県知事、県令の定むるところによるとしたが、これは小学校はすべてを公立とすることを意味するもので、国家の要望する初等教育が、府県知事、県令の監督下における公教育制度とならなければならないという教育行政上の方針を確立したものである。さらに注目すべきことは、尋常小学校四ヵ年を義務教育の年限として、義務教育の制度を確立したことである。
この小学校令によってわが国の国家的小学校制度の基礎がつくられたのであるが、さらに明治二十一年四月に市制および町村制、同二十三年五月に府県制および郡制が実施されて府県、郡、市町村の地方自治制度が確立されたのを機に、明治二十三年十月七日従来の小学校令を廃して新しく小学校令を制定した。
この小学校令は、(1)小学校の本旨および種類、(2)小学校の編成、(3)就学、(4)小学校の設置、(5)小学校に関する府県郡市町村の負担および授業料、(6)小学校長および教員、(7)管理および監督、(8)附則の八章九十六条から成り、小学校に関する必要な条項をすべて規定したものであった。
小学校の名称、編成は、明治十九年の小学校令と同じであるが、制度上改正された主な点は小学校の設置、運営を市町村の義務としたこと、私立学校を認めたこと、尋常小学校の修業年限を三年または四年として三年制を認めたこと、高等小学校の修業年限を二年、三年または四年とし地方の実情に応ずるようにしたことなどで
ある。
この小学校令はその後改正は加えられてはいるが、昭和十六年の国民学校令の制定に至るまで五十余年間行われたものであって、我が国の小学校制度を確立したものといえよう。
明治も三十年代になると我が国の国力が大いに伸長し、小学校教育も急速に普及してきた。そこで同二十三年には三年制の尋常科を廃して四年制のみとし、さらに将来の義務教育年限延長に備えて二年制の高等小学校をなるべく尋常小学校に附設させることとし、その教育課程を六ヵ年を通じて統一あるように編成させる方針をとった。
明治四十一年三月二十一日、尋常小学校の修業年限を六ヵ年として、これを義務教育年限と定め、高等小学校の修業年限を二年または三年とし、翌四十一年からこれを実施した。
明治五年の「学制」には、小学校を「男女共必ず卒業すべきもの」(第二十七章)と規定し明治十二年の「教育令」にも「学令児童を就学せしむるは父母及び後見人等の責任たるべし」(同令第十五条)という規定はあったが、いずれも厳密な義務教育の規定とみることはできない。義務教育制度が規定のうえに明確に定められたのは、明治十九年の小学校令であって、その第三条に「児童六年より十四年に至る八ヵ年をもって学令とし、父母後見人等はその学令児童をして普通教育を得せしむるの義務あるものとす」と定め、さらに第四条に尋常小学校(四
ヵ年)修了を義務とし、また就学の猶予は府県知事の許可を要することとして厳格に義務教育制度を実施することにした。
明治二十三年の小学校令でも同じく尋常小学校修了を義務と定めたが、同令では尋常小学校の修業年限を三年または四年とした。
明治三十年代になると義務教育制度は急速に普及してきたので、明治三十三年には尋常小学校の修業年限を三年制を廃して四年制とし、これを義務教育年限と定めて、義務就学の制定を従来よりも明確にした。一方、義務教育の就学率も年を追って向上してきたので、将来の義務教育年限の延長に備えて高等小学校二年をなるべく尋常小学校に併設し、六ヵ年の教育内容を統一あるものとする方針をとっていった。
明治三十年代における義務教育の発達はめざましいものがあり、三十五年には九一・五七パーセントに達しているが、これは世界各国比較して驚異的な伸びである。特に明治三十七、八年(日露戦争当時)以後、国運の進展にともない国民の義務教育年限に対する要望が急速に高まってきたので、明治四十年三月二十一日には小学校令を改正して、尋常小学校の修業年限を六年に延長するとともにこれを義務教育と定め、翌四十一年四月より実施した。