矢部小学校舎(旧) |
矢部小学校は、明治五年「学制」が発布されると同時に、八女教学の祖江碕済の奔走によって宮ノ尾の栗原常次宅の一室を借りて、北矢部村、矢部村ニヵ村を一学区として矢部小学を創設したのに始まる。
明治七年江碕は講会をおこし、宮ノ尾に学校を建て、また青年のための矢部塾を開いた。
当時都会をはなれたこの山村で生活や文化程度は低く、教育の必要性は感じるものの学校を建設してまで教育の振興をはかる気運は乏しかったし、高額の寄付に応じ得るほどの資産家もいなかったので、考えられたのが講会であった。一口三円の掛金で四十人ほどの賛同を得て校舎の建築資金を集めたのである。今から考えると実に小額であるが、これが建築資金となったのである。二階建三十四坪の校舎と十五坪の校長住宅百十二坪の運動場が完成したのは明治七年であった。
しかし当時の貧困な山村においては、小学生でさえも家業の担い手として草刈りや薪拾い、子守りなど重要な労働力であった。月謝まで払って学校にやることはきわめて困難なうえに、遠隔地の子どもにとって通学は不便であったから、小学校に学ぶものは少なかった。江碕は日夜子どもの指導のかたわら、家庭をまわって教育の重要性を説き就学を勧めてまわったが、その辛苦は並大抵のものではなかった。そのうちに、地元善正寺の住職田中智旭と宮原聞多の二人の青年教師が矢部小学校教員として江碕校長を扶けることになった。
やがて遠隔地の子弟の通学の便を図るため明治十四年に飯干と柴庵に、明治十六年日出に分教場が設けられた。のちに御側にも分教場が設けられた。
以来本村では矢部小学を本校として四つの分教場で教育が行われてきたが、明治十九年の小学校令により飯干、柴庵がそれぞれ飯干小学簡易科、柴庵小学簡易科として独立した。さらに明治二十三年十月七日新しい小学校令が公布され、小学校は尋常小学校と高等小学校の二種類となり、従来の簡易科が廃止されるに及んで、矢部尋常小学校、柴庵尋常小学校、飯干尋常小学校となった。また、明治二十六年日出分校が、大正二年に御側分校がそれぞれ分離独立して、単独の尋常小学校になった。
矢部小学校沿革史 | 矢部小学校舎(新) |
明治二十八年、校舎を改築して矢部尋常高等小学校と改称し、明治四十一年には義務教育年限延長に伴い村内の三校に六ヶ年修学の尋常科、矢部小学校に高等科を置いた。
昭和十六年、国民学校令により矢部国民学校と改称、たまたま同令施行の四月一日、不幸にも矢部大火により校舎、校具等類焼し、以後二年間は仮校舎で分散授業を余儀なくされた。昭和十八年飯干校と合併し矢部国民学校として新築成った石川内校舎(現矢部中学校)に入った。
昭和二十二年、学制改革により矢部小学校と改称し、矢部中学校が新設併置され、飯干小学が分離独立した。昭和二十四年には、宮ノ尾の元校地に新校舎が落成し、移転した。その後、江碕済の建学の精神を受け継いで営々として堅実な教育活動を続けていたが、過疎化の波にさらされ、児童数の減少により昭和四十六年日出小学校、翌四十七年御側小学校そして昭和五十五年高巣小学校を統合し、矢部村は矢部小学校と飯干小学校の二校になってしまった。昭和四十七年には創立百周年の記念すべき式典を挙行し、開校百年記念碑を建立して永く先人の業績を後世に残している。その間校舎も老朽化し改築の懸案もあったが、校地の選定をめぐって賛否両論が沸騰した。結局昭和六十一年、現在の北向きの地に近代的な偉容を誇る新校舎が落成し、今日に至っている。
昭和六十一年には福岡県小学校道徳教育研究会、六十二年には八女郡学校給食研究発表会を行い内外の好評を博した。現在、平成元年度に矢部村三小中学校で文部省の道徳教育協同推進校の指定を受け、「自然と郷土を愛する心を育てる道徳教育」の研究テーマのもとに、三校一体となって研究に取り組んでいる。
昭和初期の飯干小学校生徒 | 飯干小学校跡地 |
飯干小学校が民家を借りて創設されたのは、明治十四年七月のことである。当時は道路事情も悪く、幼年児童の通学が困難であったので、飯干校は矢部小学校の分校として、飯干の吹春善吉の住宅の一偶を借り受け、はじめて初等小学として発足した。当時児童数十数名で施設設備も不完全であったが、本村居住の宮原聞多を招いて寺子屋式の授業を始めたのである。
明治十五年の小学校教則では、中学年は十月から翌年四月までを前期、四月より十月までを後期として期末にはかならず定期試験を行うことになっていた。飯干校の児童は、定期考査毎に全校矢部小学校に行って試験を受けていたが、夕方おそく帰校するので、遠い児童の帰宅にはずいぶん気を遣わなければならなかった。
飯干小学校舎(新) | |
飯干小学校創立100周年 |
明治二十五年県令第四十九号小学校教則の公布とともに、飯干校の簡易科を三ヵ年程度の尋常小学校とし、さらにその上に修業一ヵ年の補習科を設置した。はじめ就学児童は少なかったが、各家庭に就学を奨励したので、就学児童は日を追って増えてきた。校舎は明治二十五年に農家を買収したもので、児童を収容するには手狭になったし、加えて採光、通風など保健衛生上も好ましくなかったので、明治三十三年建設費の半額を学区域から寄付を仰ぎ半額を村費負担とする新しい校舎を設置したのである。建築総額は二千円であった。
明治三十一年学校沿革史調整訓令が政府から出されているが、時の校長馬渡誠之は、学令簿や出席簿、学校日誌等不備なものが多かったので、その作成に苦労したことを述懐している。
明治三十三年、小学校令の改正により四ヵ年の尋常小学校になり、明治四十一年には義務教育年限延長により六ヵ年の尋常小学校となった。
昭和十六年飯干国民学校と改称したが昭和十八年矢部国民学校と合併し、石川内の校舎(現矢部中学校)に入り、飯干校舎は低学年分教場として使用された。翌年低学年分教場は廃止され、旧校舎は矢部村青年学校として使用された。
昭和二十二年学制改革により、国民学校は小学校と改称され、矢部小学校より分離、独立し飯干小学校となり、現矢部中学校に飯干小学校と矢部小学校が同居する形となった。しかし同年九月には旧飯干校舎を補修して移転したのである。
ところが、昭和三十一年日向神ダム建設のため、校舎が水没地帯になるので、現校地に移転新築することになり、昭和三十二年、現校舎に移転して今日に至っている。総工費八三〇万円であった。
その後、家屋のダム水没のため移転者が多く児童数が減少し、現在は二十八名の完全複式になってしまった。
しかし、校区民の飯干校に寄せる母校愛は強く、職員の努力と相俟ってすばらしい教育実績を積み上げてきている。校舎、校地の施設・設備の充実はもとより、教育内容においてもすばらしいものがあり、昭和四十八年には学校給食指導において文部大臣賞、昭和五十年には図書館教育において文部大臣賞を受け、昭和五十二年には福岡県教育委員会より教育文化功労賞の表彰を受けている。
昭和五十五年には創立百周年を記念して、盛大な記念式典、記念誌「母校の百年」そして創立百周年の堂々たる記念碑を校門に建立して飯干小百年の足跡を永遠にとどめている。
高巣小学校舎(旧) | |
高巣小学校舎(新) | 記念碑 |
高巣校区の児童は、明治五年の学制の施行から矢部小学校に通学していたが、遠隔地で交通不便なため就学するものは学校に近いものだけであった。そこで明治十四年七月二十日矢部小学校の分校として柴庵の一民家を借りて発足した。明治十九年には小学校令の公布により柴庵小学校簡易科として矢部小学校より独立、単級学級として民家を借りて教場にあてた。さらに明治二十三年小学校令の改正により簡易科を廃し、尋常小学校となった。明治二十六年十二間六間の敷地七十二坪の校地に十二坪の一教室と職員室、便所、土間つきの校舎が新築された。茅葺きの当時の写真が残っているが、当時の校地は現在の樋口安則宅のいちょうの木のあった所であったという。
明治三十三年八月、校地の位置を玉良井九二七六番地の二に変更し、校舎を新築して校名を高之巣尋常小学校と改称した。その後鯛生金山の隆盛などで児童数がふえ校舎が不足したので教室を改造したり、金山社宅を借り受けたりして児童を収容してきた。昭和十六年には高巣国民学校と改称したが、戦後再び高巣小学校に改称した。
昭和二十七年には現在地に敷地六九〇坪を確保し、二〇四坪六教室、職員室の二階建校舎、校舎北側に校長住宅、炊事室も新改築した。さらに昭和三十三年にへき地集会所(講堂)が完成した。
以来昭和五十五年矢部小学校に統廃合されるまで高巣小学校の輝やかしい伝統と校風を樹立し、幾多の人材を輩出してきた。卒業生は一七〇〇名に及び、閉校記念式典は三月地元民の惜別の情をこめて盛大に挙行された。記念誌「風雪百年」と校門に建設した記念碑は、高巣小学校百年の歴史を偲ぶ貴重な遺産である。
日出小学校舎(旧) | ||
日出小学校舎(新) |
日出は江碕済が桑取藪に矢部塾を開いた八女郡教育の発祥の地である。
日出に矢部小学校の分教場として日出校が設置されたのは、明治十五年三月のことである。ところが就学児童が少なかったので、明治十八年に早くも廃校になった。日出地区は、矢部小学校から一里以上もあり、また道路も狭くけわしかったために通学はきわめて困難であった。時代の進展からして教育を受けられないことは大きな問題であり、ようやく戸数や児童数もふえ、一分教場を設置するに足る児童数を確保することができたので、明治二十六年四月再び分教場を設置し、名称を矢部尋常小学校日出分教場として発足したのである。
爾来、今日まで時代の変遷とともに児童数の増減はあったものの二級へき地校として地元校区民の深い郷土愛と教育愛に支えられ、営々と教育活動が行われ、幾多の人材を輩出したのである。週一回土曜日に山を下り、月曜日には日用品や食糧をかついで徒歩で上っていった教職員の自炊生活の不便さは、今日から見れば想像を絶するものがあったが、校区民は温かく親切であった。
しかし過疎化の波には勝てず、児童数も減少したので、昭和四十六年ついに矢部小学校に統廃合され、九十年の歴史を閉じたのである。
現在、校地、校舎は、共同製茶工場と茶畑になっているが、日出集落の一段と高い丘の上に当時の面影を残している。
記念碑裏面 | 廃校記念碑 |
御側小学校の創設の年や当時のようすは、どうしたわけか資料がないのでよくわからない。
ただ明治三十九年以降の学籍簿は保存されていて、表紙は御側尋常小学校となっている。また大正十四年の学籍簿の表紙には、御側農業補習学校(男子部女子部)とあるが、農業補習学校の性格がよくわからない。
御側小学校舎 | 当時の学籍簿 |
廃校記念碑 |
矢部小学校沿革史に「大正二年四月、藁葺き校舎一教室を建設し、矢部小学校より独立して御側尋常小学校と称す」とあるから、それ以前は、飯干小、高巣小、日出小と同じく矢部小学校の分教場として創設されたのであろう。
大正七年十一月校舎を現位置(元少年自然の家)に移転改築、同時に校長住宅も建設している。この間女鹿野の松鵜正蔵宅の一部を仮教室として借用したこともあった。
その後運動場の拡張、自家発電による点灯、講堂の建築、校区の変更(三倉地区を御側校区に編入)校舎の全面改築など校舎、施設設備の充実を図ってきた。またその間、へき地の特性を生かした教育内容の充実を図り、へき地教育研究会など研究の成果を内外に発表している。
昭和三十八年十二月に創立五十周年記念式典を挙行している。昭和三十八年から逆算すると五十年前が大正二年になるので、御側小学校の創設を矢部小学校から分離独立した年としたようである。
御側は後征西将軍の御霊が眠る由緒ある地である。校区民はそれを誇りにして郷土の文化や伝統を大切に守り育ててきた。
大正二年の創設以来御側小学校は校区の唯一の文化教育の殿堂であり、校区民の熱い期待のもとに五四二名の卒業生を送り出している。しかし児童数の激減により昭和四十七年ついに閉校のやむなきに至り、矢部小学校に統廃合されて、御側小学校の伝統や校風は矢部小学校に受け継がれることになった。
御側小学校の校地、校舎は、その後「矢部村少年自然の家」として再活用され、キャンプや研修など都市の人々との交流の場となっていたが、これも時代の流れで閉鎖されるに至った。
矢部中学校舎(新) | 校札 |
昭和二十二年三月連合軍総司令部( G H Q )の方針により、政府は教育基本法と学校教育法を公布した。小学校は年限を六年、中学校は三年を義務制とし、高等学校三年、大学は四年を原則とするいわゆる六・三・三制の発足である。
この制度の発足により中学校の新設をかかえた市町村は、大きな経済的負担を強いられることになった。
生みの親であるアメリカでさえ六・三・三制の実施には論議と準備に三十年を要したといわれたのに、我が国ではわずか一年間の論議で何の準備もなく実施されるに至ったので、きわめてたいへんなことであった。
校歌 | 校旗 |
矢部村では昭和二十二年二月、時の村長轟政次郎を委員長として議会、区長、学校長、学校後援会長、各種団体の長をもって構成された「新学制準備委員会」が組織され、矢部中学校の設置について検討された。
新設だから適切な場所に新たに校地を設定して建設すべきであるという意見と当時矢部小学校の焼失により飯干小学校と統合し矢部国民学校として授業が行われていた現石川内校舎を中学校とする意見に分かれた。
ところが、飯干校区は、距離が遠く、低学年児童の欠席が多く、中学校が発足すれば飯干小学校を復活してほしいという校区民の声が起こった。
委員会は結局石川内校舎に矢部中学校を創設することに決定し、答申した。
村議会は委員会の答申に応じて、統合中の飯干小学校は工費二十五万円で旧校舎を補強修理し、矢部小学校は旧役場の位置に引き直し、後新築することに決議した。
昭和二十二年四月一日、矢部中学校の設立認可があり、同日付で椎窓均が校長として任命された。教職員は旧青年学校から三名、小学校から四名任命され、校長を含めて八名の陣容で発足した。
ただちに開校の準備にあたり、一年生は国民学校の卒業生、二年生は高等科一年を修了した者と青年学校予科一年の修了生、三年生はすでに国民学校高等科二年を卒業していたので、就学希望者および旧制中学校からの希望者、計二二一名を七学級に編成した。
名簿を作成し保護者に通知して、桜の花は咲いてはいたものの、うすら寒い四月十六日、校庭で開校式が挙行され、ここに新制矢部中学校が発足したのである。
矢部中学校は開校したものの石川内校舎に全生徒を収容することができないので、女子一〇一名を旧飯干校舎に充て、職員はかけもちで授業が開始されたのである。このように石川内校舎は、矢部小学校、飯干小学校、矢部中学校の同居生活であったが、三校の校長、教職員が共にかけもちで授業にのぞんだのは幸いであった。
夏休み中に飯干校舎の補強工事が終わり、九月十二日飯干小学校は分離独立することになった。ちなみに当時の飯干校は、日向神ダム建設前まで飯干集落の国道下、今の河川敷公園にあり、今は跡地に記念碑が残るのみである。
飯干校の分離移乾により、一学期間収容していた女子部が帰り、ようやく本来の男女共学が実現した。
矢部中学校授業風景 |
連合軍総司令部は九ヵ年の義務教育であるが、中学校は青年前期で心身の発達上から小学校と同居することは避けるよう指導していた。しかし本村では矢部小学校建設前に役場の移転が行われるなど容易なことではなく、矢部中学校が新築落成を見たのは、昭和二十四年十月十三日のことである。
六教室の建築費四百五十万円、内村民の寄付一戸当たり千円の浄財を仰いだ。当時他の市町村では寄付金五千円以上といわれていたとき、本村では村有林のおかげでずいぶん助かっている。ただし工事費のうち砂利あげ、地づきなどの労働力は、村民、中学生の奉仕作業として委託されたものである。
つづいて十月十九日矢部小学校が新築なった校舎に移転したので、開校以来二年六カ月にしてようやく矢部中学校は独立校舎として発足したのである。
開校当初は生徒数も少なかったので、机、椅子は旧青年学校や高等科のもので間に合っていたが、翌年には生徒数三二〇名、昭和二十四年には四一〇名と急増し、机、椅子を新調しなければならなかった。また新制中学校は教科担任制でもあり、新しい教材、教具も整備しなければならず、村では整備五ヵ年計画を策定して当面最小限の内容設備をすることになった。
「協同、勤勉、責任」の校訓のもと、教職員生徒一体となって村基本林の植林などの勤労作業を行った。特に蛇渕の杉林一町歩を青年学校から引き継いだが、終戦前後のこととて手入れ不十分なため潅木、雑草が繁茂し、それを除去するのに非常な努力を要した。しかし生徒たちの力によって見事な美林を育成することができた。
また、学校の裏山にある村有の茶園を借り受け、開墾し茶園を経営した。肥桶を担いで急な坂道を登り下りした苦労談は、今でも卒業生の間の語り草になっている。今では時代の流れで杉林も茶園も手放して経営していないが、当時は学校の教材備品の購入に貴重な収入源となっていた。
昭和23年に建てられた職員住宅 |
開校の翌年には、学級数もふえ教員も十八名に増員されたが、教員の確保がむずかしかった。当時の教員の給料は安く、初任給で背広の一着も自転車の一台も買えない有様で、教員になり手がなかった。村外から雇い入れようにも交通不便で来手がない。しかも中学校は専門教科制で、だれでもよいというわけにはいかない。それでも村内の旧制中学校や女学校を卒業した人に代用教員になってくれと頼みこみ、とにかく教員を揃えなければならない苦労があった。昭和二十三年七月には、村外からの教職員を受け入れるために、現在中学校の特別教室になっている高台に、家族持ち二人、独身者四人を収容する教員住宅を総工費二十五万円で建設した。さらに竹ノ払、中村、真弓尾、福取に教員住宅をつくり、村外からの教員を受け入れたのである。
こうして、矢部中学校は村内ただ一つの新制中学校として村民の熱い期待と協力に応え、地域に根づいた学校として発展していった。その間数々の研究発表会も行われ、さまざまな表彰も受けているが、昭和六十一年その実績が認められ、福岡県教育文化功労賞の栄に輝いた。卒業生も平成三年三月で三九九一名を数え、各界の第一線で活躍している。
かつて最盛期の昭和二十九年には、生徒数四七七名を数えた生徒も、現在では九〇名を割り一学年一学級でさみしくなっている。また、校舎も老朽化し、運動場も狭いので、新校舎建築が日程にのぼるのも近い将来になるであろう。
矢部保育園 |
昭和三十二年五月五日、北矢部四、八六九番地の善正寺本堂を仮園舎として住職田中瑞城が私立矢部保育園を開設した。
翌三十三年七月一日、財団法人矢部保育所として県知事の認可を得て、個人の寄付行為により北矢部四、八九五番地に木造平屋建七十六・五坪(二百五十二平方メートル)の園舎を建築、定員七十名とし、理事長に田中瑞城が就任して運営管理に当たった。
その後、二十年を経過したが、園舎の老朽化と保育二ーズの高まりにより園舎の新築を計画し、資金として自転車振興会補助金、矢部補助金、一般寄付金を得て、総事業費五千百六十九万二千円で、北矢部五、○八八番地に移転新築した。敷地面積千五百四十一平方メートル、鉄骨平屋建四百九十二平方メートル、定員六十名の近代的な園舎が完成した。設置主体を社会福祉法人とし、理事長、園長に田中瑞城が就任し運営管理に当たって現在に至っている。
移転改築後、一時期園児数が増加し、昭和五十八年四月定員を六十名から九十名に増加したが、昭和六十一年ころから、毎年園児が減少しはじめた。定員は九十名であるが、実人員は七十名である。
戦前の教育は、すべて国策遂行のため国家の統制のもとにおかれていた。
戦後、地方の教育行政については、日本国憲法、教育基本法の精神にもとづき教育の民主化、地方分権および自主性の確保を目的として教育委員会制度が導入され、昭和二十三年七月十五日教育委員会法が施行された。当時の教育委員会は五大都市(大阪、京都、名古屋、神戸、横浜)および既設の都市のみであり、それ以外の市は昭和二十五年または昭和二十七年に設置が義務づけられた。すべての都道府県および市町村に教育委員会が設けられたのは、昭和二十七年十一月一日のことであった。
教育委員会はレイマン・コントロールといってレイマン(素人)である教育委員によって構成され、教育行政の重要性にかんがみ一般行政から独立した合議制の執行機関である。当時の教育委員の選出は、市町村議会議員と同じく有権者による一般選挙であった。
村では六名の委員が選出され、うち四名が一般選挙、一名が議会選出で、委員長には一般選挙で選出された小川初次、副委員長に議会選出の山浦辰喜、委員として栗原又一、大渕民蔵、坂井百吉が昭和二十七年十月五日に就任している。なお教育長には、栗原孝介が助役兼務という形で昭和二十七年十一月一日に就任している。さらに委員の辞任に伴い、新宮八十郎と松尾虎吉が昭和三十年五月に交代している。
その後教育委員会は、昭和三十一年に「地方教育行政の組織および運営に関する法律」(地教行法)の制定に伴い、今までの委員の公選制から任命制への切り替えなど制度の大幅な改革が行われ、今日に至っている。教育委員の公選制から任命制に変わることについては、全国的に大きな議論と混乱を呈したが、改正の趣旨は教育の政治的中立性の確保と教育行政の安定、国、都道府県、市町村一体としての教育制度の樹立並びに地方公共団体における教育行政と一般行政の調和にあった。
こうして教育委員会は、地教行法の制定に伴い、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命することになった。任期は四年で、人格が高潔で教育、学術および文化に関し識見を有するものが任命された。
本村では昭和三十一年十月一日付をもって、教育委員長に栗原又一、委員に椎窓均、石橋峰蔵、大渕民蔵、新宮八十郎の五名が任命され、教育長には委員の中から福岡県教育委員会の承認を受けて、椎窓均が任命された。
以後、今日までの委員の氏名と就任期間は、表のとおりである。
氏 名 | 期 間 | 備 考 |
---|---|---|
山 浦 辰 喜 | S.27. 10. 5〜S.30. 4. 22 | 議会選出 |
栗 原 又 一 | S.27. 10. 5〜S.31. 10. 4 | 一般選挙 |
大 渕 民 蔵 | S.27. 10. 5〜S.31. 10. 4 | 〃 |
坂 井 百 吉 | S.27. 10. 5〜S.30. 4. 29 | 〃 |
新 宮 八十郎 | S.30. 5. 1〜S.31. 10. 4 | 補欠選挙(坂井百吉の後任) |
松 尾 虎 吉 | S.30. 5. 6〜S.31. 9. 30 | 議会選出(山浦辰喜の後任) |
石 橋 峰 蔵 | S.31. 10. 1〜S.35. 9. 30 |   |
大 渕 民 蔵 | S.31. 10. 1〜S.34. 4. 20 |   |
新 宮 八十郎 | S.31. 10. 1〜S.34. 4. 21 |   |
栗 原 団九郎 | S.34. 7. 1〜S.40. 9. 30 | 新宮八十郎の後任 |
姫 野 才 吉 | S.34. 7. 1〜S.40. 6. 30 | 大渕民蔵の後任 |
原 一 己 | S.35. 10. 1〜S.47. 9. 30 |   |
若 杉 文 夫 | S.40. 7. 1〜S.46. 10. 1 | 姫野才吉の後任 |
椎 窓 均 | S.43. 10. 1〜S.46. 9. 30 |   |
中 司 政 行 | S.46. 10. 1〜S.50. 3. 31 | 椎窓均の後任 |
田 中 瑞 城 | S.47. 3. 10〜S.50. 4. 1 | 栗原又一の後任 |
栗 原 良 雄 | S.47. 10. 1〜S.50. 3. 31 |   |
平 田 直 亮 | S.50. 6. 19〜S.61. 10. 17 |   |
若 杉 進 | S.50. 6. 19〜S.60. 10. 30 |   |
栗 原 照 幸 | S.50. 6. 19〜S.58. 3. 10 |   |
栗 原 武 | S.58. 7. 1〜平成2年現在 | 栗原照幸の後任 |
大 渕 和 夫 | S.61. 3. 17〜S.63. 2. 29 |   |
伊 藤 篤 | S.61. 10. 15〜H. 2. 10. 14 |   |
姫 野 英 夫 | S.63. 8. 3〜平成2年現在 |   |
高 山 節 雄 | H. 2. 10. 15〜 〃 | 伊藤篤の後任 |
代 | 氏 名 | 期 間 | 備 考 |
---|---|---|---|
初 | 小 川 初 次 | S.27. 10. 5〜S.31. 10. 4 | 公選制による |
二 | 栗 原 又 一 | S.31. 10. 1〜S.47. 2. 5 | 地教行法施行後任命制による |
三 | 若 杉 文 夫 | S.47. 2. 6〜S.50. 3. 31 |   |
四 | 田 中 瑞 城 | S.50. 4. 1〜S.61. 10. 14 |   |
五 | 平 田 直 亮 | S.61. 10. 17〜平成2年現在 |   |
代 | 氏 名 | 期 間 | 備 考 |
---|---|---|---|
初 | 栗 原 孝 介 | S.27. 11. 1〜S.31. 9. 30 | 助役兼任 |
二 | 椎 窓 均 | S.31. 10. 1〜S.43. 9. 30 |   |
三 | 中 司 萬 吾 | S.43. 10. 1〜S.56. 12. 20 |   |
四 | 角 正 夫 | S.57. 1. 22〜S.63. 8. 2 |   |
五 | 椎 窓 猛 | S.63. 8. 3〜平成2年現在 |   |