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日向神峡(天戸岩) |
歴史の項でも述べているように矢部村の上代には、文化的にも見るべきものも少なくない。八女東部の山岳地帯は、日本書紀にも出てくる八女津媛の伝説にも見られるように、神聖にして侵すべからざる霊地として古い歴史と文化を持っていたことにはまちがいない。
原始時代の人々は、太陽を崇拝していた。八女東部の山々は太陽の昇るところである。筑後の低地―そこは矢部川、筑後川沿いの沼地が多かったと思われるが─から見れば、釈迦、御前岳を仰ぐ八女東部の山々は、正に太陽の昇る神聖な土地と見られていたと思われる。日向、日向神などの地名も、おそらく太陽の昇る地を特別な聖地として崇めていた証左であろう。
景行天皇に答えた水沼(みぬま)の県主猿大海(あがたぬしさるのおおあま)も、そういう思いを持っていたにちがいない。そういえば、筑後や北部九州を支配しようとして争った上代の豪族たちが、この地を侵したという形跡がない。これはこの地が支配するに値いしない不毛の山岳地帯であったからばかりではないように思われる。少なくとも上代人にとっては、釈迦、御前岳、三国山、国見山を中心とする矢部の山岳地帯は、原始信仰の対象として神聖な地域であったのである。
中世の中葉吉野朝のころになると、歴史の項でも述べているように、この矢部は菊池氏とともに両征西将軍宮を護持した五条氏の拠る所であった。それ以来中世末に及ぶまでこの矢部の地は、五条氏が領有していたのである。ところが、中世末期から戦国の動乱がこの地にも波及し、五条氏は大友、龍造寺氏の間で浮遊しなければならなかったが、それは筑後地方の諸豪族も同じであった。五条氏は主として終始大友氏に属していた。
このような背景の下で考古学的資料として永禄前後(一五〇〇年代)の仏教遺物が急に多数見られることは、本村における文化的な著しい特徴である。おそらく永禄前後に本村においては一つの著しい宗教的な文化運動が興ったものと考えられる。
歓喜山善正寺 |
善正寺には永禄銘の宝きょう印塔が残っているし、ニツ尾に板碑を残す「輝雲宗旭上座」もまたこれに与って力のあったものと思われる。なお、善正寺の古石塔群の示すところによると、金剛界大日、弥陀、釈迦の各信仰があったことがわかる。禅宗系統は筑肥の大勢から推測すると曹洞宗であったと思われる。
これらの宗教文化は天正年間(一五七〇年代)に断絶し、善正寺の古石塔群は天明のころ(一七八○年代)に再発掘されたのである。当時善正寺という寺はなく、現在の善正寺は正保三年(一六四六)福島の正福寺の末寺として古石塔のあるこの地に建立され今日に至っている。善正寺のある地名は北矢部字殊正寺小字伽藍下というが、この地名はおそらく善正寺造立以前の地名であったと考えられる。またこの伽藍下には、古石塔群の存在と考えあわせると、この附近に相当の寺院があったものと考えられる。殊正寺の字名はおそらくその廃寺の名前であろうと思われる。ちなみに殊正寺の字中には、この伽藍下のほかに寺院に関連すると思われる小字名はない。このように考えてくると、この古石塔のあった寺院はおそらく殊正寺と称し、この伽藍下附近にあったのであろう。善正寺の北約百メートルの地点は善正寺境内より約二十メートルほど高い所であるが、ここを俗に阿弥陀堂と呼んでいる。これもまたこの古廃寺に関係のある地域ではないかと思われる。
なお江戸初期にこの地に寺院らしい寺院がなかったことは、寛文十年(一六七〇)の久留米藩の寺院調査で、矢部村に善正寺を除き各宗の寺院がひとつもなかったことがわかる。
また柳川藩についても、荘厳寺の中興二世の遷化が元禄十五年(一七〇三)であり、江戸初期には、矢部村には仏教文化で著しいものはなかったといえる。
以上述べたように、永禄前後に一時光芒を放った仏教文化は、天正末に断絶したことがほぼ明らかである。その原因は、矢部を領した五条氏の運命と軌を一にしたためと考えられる。というのは、中世以来この地に本拠を置いた五条氏が、天正十五年(一五八七)豊臣秀吉の九州平定の際ついに廃せられ、この地は代って筑紫広門に与えられてしまったからである。筑紫広門は、山下城あるいは福島城に本拠を置いて筑後一円を支配したが、そのために矢部の地は全く辺すうの地と化してしまったのである。ついで関ヶ原の戦で慶長六年(一六〇一)にはこの地は田中吉政の領地となったが、元和六年(一六二〇)没収されている。かわって有馬、立花両氏の領地となって江戸末期まで続いている。その間領主がかわっても、矢部村が両藩のもっともへき遠の地であることにかわりはなかったのである。
秀吉に追われた五条鎮定、統康父子ははじめ豊後日田に行ったが、後に肥後八代に移り、統康はやがて加藤清正に仕えた。統康の子長安のとき、加藤忠広が改易(お家断絶)されるにおよんで、立花宗茂をたより大渕村に帰住し、今日に至っている。このように五条氏の運命をたどることによって、上述の仏教文化の盛衰と五条氏の関係がよくわかるのである。
善正寺の古厨子 |
矢部村役場附近の三叉路から矢部川の支流御側川に沿って約一キロメートル上った西側の小高い丘の中腹にお寺がある。歓喜山善正寺といって、宗派は真宗大谷派に属する。
この寺に古い厨子が保存され、県の文化財に指定されている。この厨子は、もと本堂の裏にあった小堂に安置されていたが、損傷がひどく、きれいに補修されて今は本堂に安置されている。
厨子は総高三尺二寸九分(約九十九、七センチメートル)柱間二尺一寸一分(約六十三、九センチメートル)と一尺一寸(約三十三、三センチメートル)である。屋根及び台座はいたんで補修されたが、他はほとんど当初のままである。
構造は刳形の脚をもった框の台座の上に、地長押と腰羽目をかまえる。車輪状の礎盤の上に下部のみ唐様粽の四本の円筒形柱が存する。正面は両開きの棧唐戸の扉で、上下の長押(なげし)に附加された枢木で方立部にとりつけられている。内法長押の上には幕板に板欄間があり、桁は直ちに屋根を受けている。側面は上部に竪連子の幕板をはり、下部は一枚の壁板をはめている。背面は中央に腰貫を一本入れ、その上下は各二枚の壁板をはめている。屋根は中央平屋根で、前後左右の四方の庇(ひさし)は四隅のみ照りを作っている。これらの木組はすべてはめこみになっていて、要所に割りくさびを打っているが、木釘は使っていない。ただ扇の枢木はすべて鉄釘で附着している。
また庇の四板、台座の四板の組立ては鉄鎹で補強している。用材はわからないが、羽目板はすべて杉らしい。柱は別種の材である。
厨子の装飾は、桁、梁部の木鼻、台座の脚に簡素な唐草を、正面の桁と腰羽目に簡単な文様を線彫りしているにすぎない。正面欄間は中央に月に卍字を置き、他は流水繋ぎという透彫(すかしぼ)りである。扉の上部には、左に観音、右に勢至(せいし)の種子を同様の月輪中に入れている。卍字及びその月輪には金箔を施し、欄間内にはられた幕板及び扉の種子の月輪内の地は胡粉を塗っている。また欄間の全表面及び扉の全枢の額縁様の部分と唐草などの装飾文様は墨色をしている。ほかはすべて素木のままである。
厨子背面の内側上段の一面に次の銘文が記されている。
当住持仙林坊澄全為二世造立畢 生年六十歳 板之檀那迎新五郎 材木之檀那 福田新六郎寄進之 大工筑前国宗像住元吉作之 大願主住持権大僧都法印澄全 奉造立高田山極楽寺阿弥陀如来 厨子一宇右意趣者為天長地久 御願円満□□□寺内安穏仏法繁栄 人民快楽□□□□□□□□□檀那 武運長久息災□□□意□□□如件 為志東□□里廿八坪一反寄進之 当領主□□□太郎三郎 藤原□□ 当代官金持孫右衛門尉 塗師江口右衛門□ 永禄三年申庚二月十五日 成就畢 白敬
銘文は羽目板一ぱいに正しく収められているが、とくに注目されるのは文字配置でシンメトリカル(対称的)に中央を高く、左右に数字ずつ下げた二段を置き、両脇はまた中央と同じ高さに書かれている。後述する松林厨子銘の書き方と共通している。
この銘によって厨子の製作年代や製作の由来願主及び製作者の氏名とその出身地までも知ることができることは、きわめて貴重である。しかし、その歴史的背景への関連をはっきりつかめないことが惜しまれる。
厨子には今、像高一尺一寸七分(約三十五、
五センチメートル)の仏像が安置されている。
寺伝では虚空蔵菩薩像といっている。
像の底裏は、新しく削られて次の墨色の銘が ある。
奉造立 永禄三 庚申 二月十五日 成就之 奉再色 于時宝暦十四年 甲申弥生下旬 施主僧慈雲 敬 行歳三十三
古厨子内の仏像 |
最初の「奉造立永禄三申庚二月十五日成就之」は脇に添書きされた書き方で、明らかに宝暦十四年の記銘の時あるいはそれ以降に添書きされたものである。銘にあるように、仏像は宝暦年間に再塗彩されたものでそれ以前の作であることはまちがいないが、永禄云々は一考を要すると学者は指摘している。というのは、この永禄銘は厨子の年月日と全く照応し、厨子と同時に作られ厨子の本尊のように見えるが、厨子銘によれば本尊は明らかに弥陀でなくてはならないし、厨子の種子もそれを照明している。即ちこの尊像は本来この厨子の本尊ではないということである。厨子と同一製作日を記しているのは、おそらく次のいずれかの理由によるものだろうと専門家は推定している。
第一は本来底裏にこのような銘文があったものを宝暦記銘の際書写して残したのではないかということで、厨子作製日に種々造像したことが考えられることである。
第二は本来このような永禄銘はなかったものを宝暦記銘の際かそれ以降に厨子銘の年記の部分を無理解に書写したものと考えられる。
ともあれかなり以前から厨子内に安置されていたものと思われる。尊像の彫刻史的年代観はわからないが、近世のものとは考えられない。
光背は木製で、頭光、身光とも飾金具が打たれている。その周囲の蓮弁状の金銅製の光背は四枚つづりで一つになっている。その宝相華唐草の透彫りはかなり秀れたものであり、厨子以前の製作ではないかと思われる。大きさの点からも、この尊像のものとは考えられない。
善正寺の経机 |
厨子と共に保存してあったもので、脚下と机面の風化が著しい。机面は厚さ五分(約一、五センチメートル)の一枚板を用い、二尺六寸八分(約八十一、ニセンチメートル)九寸八分(約二十九、七センチメートル)の長方形である。高さ八寸六分(約二十六センチメートル)で、正面腰には隅尖りの窓を左右対称に切り、脚に牡丹唐草を左右対称に配している。脚下には更に受け木を設けて底面の四方を連接している。腰及び支脚の稜は細かく削られていて美しく彫製された跡がうかがわれる。腰四面に張りめぐらした添え木は断面外膨らみの山形をなしていて、連接部分には竹釘を用いている。脚部には赤色、その他には青色の塗彩が見られる。背面腰には窓はなく、脚には雲形文を左右対称にしつらえているが、これは一枚板を彫り切ったものである。牡丹唐草や雲形文を表現した脚部は力強いモチーフがうかがわれる。仏像と厨子の年代を確定するまでに至らないが、時代的にも同時代のもと考えられる。貴重な文化遺産であり、早急に適切な修理と保存の設備が望まれる。
善正寺境内の一角に推定樹齢四〇〇年という槇の大木がある。その下に宝きょう印塔、五輪塔が数多く見られる。風化が激しく、銘の見える古碑は、側にある矢部村四国八十八ヶ所第十番札所、薬師如来堂に保存してある。
この古塔については筑後将士軍談に記載が見え、発見の由来を知ることができる。
矢部村古碑
殊正名善正寺ノ境内ヨリ近年地ヲ掘リテ古碑数多出タリ、都テ銘文分明ナラズ、其中二前武州大守桐岳宗栂禅定門墓、永禄十年□月□□日(月日ハ今忘レタリ)リト勤セリト、同名居住ノ医師遷林、天明五年九月語レリ 小川筆記
とある。
古石塔群は、いずれも解体集積されているので、同一個体を捜し出すことは困難である。多くは宝きょう印塔で、五輪塔は少ないようである。
善正寺のある殊正寺と呼ばれる附近が、五条氏に極めて関係深い古寺の存在した所であることは、隈部為治が七代五条良邦に与えた書状や、天正六年(一五七八)の日向高城合戦の軍忠状などの五条文書でよくわかる。また、次の五条文書では、善正寺境内の古石塔の主が、明らかに五条氏の一門であると断定できる。
(袖判) (筆者注大友義鎮) 永禄拾年九月三日於秋月休松、合戦之刻、 五条鎮定親類披官、或戦死或被庇人数着列、 銘々加披見畢 戦死 清原武蔵守 同 鬼塚大膳亮 同 石川五兵衛 同 鬼塚伊豆守 同 中野次郎右門尉 同 九郎兵衛 同 十郎兵衛 被庇衆 甚七 月足備前守 石川四郎右衛門尉 柴庵新兵衛尉 中野四郎兵衛尉 主計 以上
善正寺の石塔群 |
この戦死の筆頭清原武蔵守こそ、金箔の残っている宝きょう印塔の「前武州大守桐岳宗栂禅定門」であることは一見して明らかである。古塔銘の永禄拾年九月三日は、正に朝倉郡休松の合戦において大友軍として戦死した日に当たるのである。「五条鎮定親類被官」とあり、清原姓が五条氏の本姓であることから、戦死者筆頭の清原武蔵守が五条氏の一門であったことは間違いないと思われる。
本村大字栗原の通称「寺」と称するところに小堂がある。矢部村四国八十八ヶ所第五十八番札所で、本尊は十一面観音である。観音像は、柔和な表情をした逸品であるが、頭部の十一面観音はすべて欠落し、像そのものも相当傷んでいる。
この観音像を安置した古厨子は、善正寺のものと極めて相似した厨子である。保存が悪く、台座と四本の円柱及び桁、梁、平屋根の主な構造部のほかは、側面の壁板等を若干残すのみである。したがって、正面の扉のつくりや背面のからくりなど一切不明であるが、残っている主な構造は、殆ど善正寺の厨子と同一手法である。大きさは、善正寺の厨子よりも相当小さく、高さ一尺八寸五分(約五十センチメートル)で、相違点は屋根が一枚づくりで、庇と中央部に分かれていない。また、側面の壁板は板材を横に使い、枚数を重ねている。台座も平板で簡単な造りである。
かなり腐蝕した一枚板の屋根裏いっぱいに、墨書銘があり、厨子の製作年代や造立のいきさつがわかる。
□奉造立十一面観音菩薩厨子 意趣者仰仏日光輝転法為 山門鎮静瑞憑三十三身変 異得家門繁昌栄専祈者 子孫全盛之連綿万変如意也 □天文十二夘癸季十一月廿一日成就之 雲護寺松林禅寺 持住 明意 筑後州上妻郡河崎庄矢部村内 当檀那願□栗原式部少輔源臣朝親直(花押)
十一面観音様に家門繁栄、子孫全盛を祈って奉造したものであるが、願主の栗原式部少輔という人がどういう人であったかはわからない。おそらく矢部に住した栗原一族の有力者であったことは間違いない。
善正寺と同じく文字の配置に特色があり、善正寺の厨子より十七年古い。
ニツ尾の杉林の中に永禄年号の板碑がある。板碑中央部に円の線刻、中の卍は五ミリ程の幅で刻まれていて下方に銘文がある。
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松林寺の古厨子像と十一面観音像 |
永禄五年は、正親町天皇在世一五六二年で、今から凡そ四百三十年ほど前である。
この板碑のある所を、土地の人は「とのんたっじょ」とか「とのんたっちょば」と呼んでいる。思うに昔殿様がお立ちになった所(殿の立所)であったから、そう呼んだのであろう。あるいは、見張り番が立った所かもしれない。殿が征西将軍宮であったかどうかはわからない。
銘文の最初の「欽」は、つつしむ、敬うの意であり、天子に関するものに「欽」を冠する。また、「示」「霊」とあり、一行目には「石塔」とある。「○○居士也」とか「塔」と入っている場合、「也」「塔」などは、回忌や供養塔に使うので、この板碑はかなり身分の高い故人の慰霊碑と解される。
栗原集落の入口、道路上の田んぼの畦に立っている。もとは田んぼの中にあったのを、畦に移したという。今は刻字が磨滅して殆ど読み取れない。
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板碑には次のような墨書の木札が立ててあったが、今は見当らない。現在に至るまで木遺物に関する伝承のほどがうかがわれる。
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栗原氏は、五条氏の有力な家臣団のひとつであったから、栗原一族の先祖であったろう。また、菩提也とあるから、慰霊碑とも解される。
なお、ニツ尾、栗原では、それぞれ十月に山の神祭りとして、板碑にシメなわを飾り、相集まって酒肴を酌み交わすならわしがある。
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寛文は十二年で終わる。したがってこの紀年は、延宝四年(一六七六)に相当する。この近くにはこのような現象が少なくない。これは当時改元しても容易に知られなかったと考えられ、これもまた情報の入りにくい山間へき地の一特性を示している。
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墓碑は、幅六寸九分(約二十一センチメートル)高さ二尺六寸四分(約八十ニセンチメートル)、厚さ二寸八分(約八・五センチメートル)の矩形の板碑である。
銘文が表裏に刻されている。
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現在は倒壊していて、笠と柱身を残している。柱身は四角柱の柱稜を落として八角柱に仕上げ、銘が刻まれている。対をなす二個の柱身は風化が著しく判読できなかった部分もあるが、次のように読まれる。
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永禄五年銘板碑(二ツ尾) | 永禄十年銘板碑 |
寛文十六年銘板碑(飛在所) | 正徳二年銘板碑(茗荷尾所在) |
元禄十五年銘墓碑 | 元禄六年銘石燈篭 |
関西山荘厳寺 |
本村大字矢部字所野の山すその台地に関西山荘厳寺という浄土真宗東本願寺派の寺院がある。本堂、庫裡の裏山に数十本の老石楠花の群生があり、四月下旬から五月上旬にかけて見事な花を咲かせる。
この寺院は、正平年間(今からおよそ六〇〇年前)に大渕村(現黒木町)月足字仏石の元に、前征西将軍宮懐良親王の落胤、寛寿丸が天台宗の御堂を建立したのが始まりという。親王を関西の宮と称したため、関西山と名付けられたが、寺の名は、もとは聖厳寺といっていたという。
文安二年(一四四五)に第三代正円坊宗林のとき、蓮如上人の教えを聞き、天台宗から宗旨を真宗に改めた。その時蓮如上人より六字尊号と正円房宗林の号を受けている。またその時は興正寺派の末寺であったが、慶長年間(約三百五十年前)円宗のとき、本願寺派になって月足から現在の所野名山の下に移ったという。
先代矢野宗円によれば、豊臣秀吉と島津氏が対立したとき、先祖が仲裁されたという。今の姓は矢野というが、矢部の「矢」と所野の「野」をとって、明治以降、矢野姓となっている。
荘厳寺は、柳川領矢部における宗教的、文化的中心で、御内仏は聖徳太子自作と伝えられる阿弥陀如来像や太子にゆかりのあるという「独鈷数珠」「法隆寺裂」などの寺宝も多く、京都の公卿との交渉を物語る「長谷殿御猶子式部卿」や六字名号の木札なども保存されている。また秀吉から拝領したという金の釣釜や仙洞より拝領した石の香炉があったというが今はない。
阿弥陀如来像 |
荘厳寺には、元禄十一年(一六九八)以降の過去帳が残され、特に安政六年(一八五九)のものは矢部村の小年表といってもよいほど細かい記載がある。檀家の分布を知るために、過去帳に現われる地名をあげると、古野、柏木、今屋敷、栗原、月足、堀廻、下古田、西園、平原、立岩、真弓野(尾)、高野、小野、林山、仏石、谷野、中切(伐)畑、伝十郎、椎葉、湯向、山口、蓼尾(田出尾)、所野、中切、桑鶴、目隠し、鬼干、飯干、栃の払、尾下、ニツ尾の字名が見え、檀家千四百二十人と記されている。
境内には、六地蔵などの石造記念物が多いのも、この地が開発された時代の古さを思わせる。
荘厳寺の所在地所野には立花家のお茶屋があり、付近には庄屋屋敷もあって、矢部の中心をなしていたので、事ある時には所野の人達は、上座に着くならわしがあったと古老は言う。なお、荘厳寺下の道路は旧柳川街道であって、寺門石段入口には「柳川より十二里」の一里石が保存されているが、刻字はかなり磨滅している。
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三尊像仏画 |
六地蔵 |
境内に六地蔵がある。
六地蔵とは、六道に現われて衆生を救済するという六種の地蔵で、檀陀、宝珠、宝印、持地、除蓋院、日光の称である。
地蔵菩薩は、釈迦の委託を受けてその入滅から弥勒仏出世に至る無仏の間の六道の衆生を教化する菩薩である。
俗説では、この菩薩は賽の河原の救護者とされ、子どもの守護者として信仰されている。わが国では、多くはあごひげや髪の毛をそりおとし、袈裟を着た形相円満な像を石で刻み、これをその像として路傍に立てたのである。
荘厳寺の六地蔵は、裏山の中腹の墓地にあったものを寺の境内に移したということである。最上部の石は、別のもので原物と思われるものは傍にある。
高さ約百五十センチであるが、柱身の六面に文字が刻まれている。
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下向七代とは五条氏が京都から九州に下向されて七代目すなわち良邦に当たり、調月宗仙居士はその法名であろう。そして天文十七年(一五四八)十一月五日に没している。これを造立したのは、十代の鑑量で文化九年(一八一二)であることがうかがえる。
なお、稿本八女郡史の「高屋城趾又は矢部山城趾」に『御前岳と三国峠の双方より出る渓水の合流点を都古呂野と云ふ。今呼びて處野と唱ふ。其南方に高山あり。之を城山と云ふ。此處より南肥後に通ずる道あり。其三方は渓水を回らし、誠に要害の地なり。五條頼元の子良遠此山に築きて拠る。之を高屋城と稱す。時代詳ならす。頼治に至り後征西将軍宮を擁護し、しばしば賊を撃退して文勲の上に武勲を顕はせし所なり。今尚此山上当時の礎石を存す。山腹には五條氏第七代良邦の墳墓あり……」とある。
昭和四十年の早春、元矢部小学校長であった郷土史家の杉森彬(立花町在住)は、先代五条頼次氏から「荘厳寺の上の方に御先祖の御墓があり、数年前に掘ってみたが何も入っていませんでした。それより以前にも、道路が出来る時掘った人がいたそうです」と聞かれたということである。
現在、墓地には一基の墓石が残っている。