八女津媛神社の浮立 |
矢部村大字北矢部字神ノ窟に郷社八女津媛神社がある。祭神は、景行天皇筑紫巡幸の頃、八女東部一帯を治めていた八女津媛神であり、養老三年(七一九)の創建と伝えられている。
この地は、古くは水源地として重要視され、中世には修験道の行場としても大切な所であったらしい。現在は、飛、土井間、神ノ窟、竹ノ払四区の氏神となっており、約四十戸の氏子が奉祀している。
この浮立がいつ頃から始まったのか詳らかでないが、昔から春に豊年を祈る「願立」の行事があり、秋になると「願立成就」のお礼として「浮立」を奉納してきた。現在は、五年に一度十二月初旬に浮立を奉納することになっている。
浮立は、八女津媛神社の氏子の代表である七人の神課によって管理されている。
この浮立は、大太鼓を打つことが中心になっていて、多人数の囃子が加わる。
この芸能の指揮者は「真法師(しんぽち)」と呼ばれ、僧の法衣を着て頭巾を被り、五色の布をつけた雨傘と「天下泰平、国家安全」と書かれた大団扇を持ち、口上を述べ団扇を振りながら演技をリードする。大太鼓は上に座蒲団を置き、御弊を二本交差して立て依代(よりしろ)としている。この太鼓を毛頭(けがら)を冠り、刀を背負った打ち方が交互に打ちまくる。謡が入るところなどは、筑後地方によく見られる太鼓浮立の形を伝えている。大太鼓とともに演技をするのが、小太鼓、鉦(かね)、むらしである。毛頭を冠り、胸前に小太鼓を吊るしている小太鼓打二人と法衣に頭巾をつけ白布に吊るした鉦を打つ鉦打ち二人、花飾りをつけた笠をつけ、鉦を持つ「連」(むらし)二人の計六人が、太鼓を打ち、鉦を叩き、舞い踊るのである。そのほか行列の先導役を務める、猿面や小紋の裃を着て御幣をかつぐ童子、紋付羽織の笛吹き十人くらいの人がつく。さらにこの浮立には、氏子の老若男女が思い思いの仮装をし、囃方として加わる。面をつけた七福神、花編笠を冠った女性や子どもが周りを囲み、囃したてる。
この浮立は、依代を持つ大太鼓を打ち、小太鼓、鉦などを打ちながら舞う楽浮立の系統に属している。
真法師、鉦打ちの服装が僧形をしている点が他の県南に伝わる浮立と違い、仏教の影響がみられる。おそらく修験道の山伏がかかわっていたのではないかと思われる。
八女津媛神社の浮立 | 八女津媛神社の浮立 |
浮立の中に謡が入るのは、能、狂言、謡曲が盛んだった筑後地方の芸能にはよく見られることであるが、囃子方として、村内すべての人が加わり、祭に参加するのは、他に見られないものであろう。
筑後地方の浮立は、多くは旧暦九月の九のつく日(九日、十九日、二十九日)に、稲刈り前に神に感謝し、豊作を祝う「おくんち」として祭りをすることが多い。暦が旧暦から新暦になると、祭日が変更され、秋も深まり農作業が一段落すると各地で祭りが催されるが、古い形の宮座も行われることが多い。
八女津媛神社の浮立も、このような祭りのひとつで、山深い里に多くの貴重な要素を残して舞われる浮立として、今日まで大切に村人たちに守り伝えられてきた貴重な民俗文化財である。
「真法師」の口上と謡の詞を記しておく。
「東西、東西、御鎮まり侯へ。御鎮まり侯へ。茲許(ここもと)に罷り出でましたる者は、江州比叡山の麓に住居をなす真法師(しんぱち)にて侯。天下泰平、国家安穏の御代の時、弓は袋、太刀は箱に納めましたは、何とめでたい御代では、左様ございますれば、五穀豊穣、御願成就として、氏子中の子どもに笹をかたげさせ、面白からぬ浮立をザァーとうたせます。ソウソウ、浮立を始めい、始めい。」
「御吉野の千本の花のたねとして、嵐山新たなる神あそびこそめでたき。神あそびこそめでたき。」
「老いせずや、薬のなおもきくの酒、盃に浮かびて共に会うぞ嬉しき、また共に会うぞ嬉しき。」
この八女津媛神社の浮立は、昭和三十九年五月七日に福岡県の無形民俗文化財の指定を受けている。また、昭和五十八年十月十六日に北九州市民会館において行われた「第二十五回九州地区民俗芸能大会」に、福岡県の代表として公演し、好評を博した。
現在、氏子の減少と維持費負担の増加が悩みであり、最近は数年おきに行われている。
村行政の財政的援助が望まれる。
また存続のためには、氏子だけではなく広く村民の参加を促すことも考えられている。