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岡崎城(写真提供:江上憲一氏:1960年代撮影) |
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田中吉政岡崎残衆の事(岡崎専福寺所蔵) | 田中吉政像(大日本資料所蔵) |
吉政の出生は天文17年(1548)近江の国高島郡田中 村の出身で信長・秀吉の将、宮部善祥坊に仕え、度々の戦功あ って秀吉の甥「三好秀次」の家老として3万石を領した。
秀吉の信任厚く始め久兵衛長政といったのを秀吉の一字を 貰い吉政と名乗るようになった。
秀次が秀吉と事を構えた折りには吉政は度々秀次を諌め たが遠ざけられ、秀次が秀吉に処断されたときは、罪に問わ れるどころか「秀次によく諌言をした」として天正18年(1 590)に徳川家康が関東へ移封後の岡崎で5万7千4百石 を領するようになった。
その後度々の加増で西加茂・幡豆の一部を加え10万石に加 増をされている。
秀吉没後は、関ヶ原の戦いで吉政は家康の東軍に荷担し、西 軍の事実上の大将で同じ近江の出身である「石田三成」を捕 まえるという大功を上げ、慶長6年(1601)に九州の柳川・ 久留米の32万5千石の破格とも言える所領を賜った。
これば徳川政権の外様大名に対する政策(遠隔の地に大 禄で封じ徳川政権の基盤が築かれてから些細な口実を設け 取りつぶす)と見られ、柳川藩田中家は吉政の没後、次の代に 大坂夏の陣の遅参と藩の内紛を咎められ、福島・加藤(清正)・ 加藤(嘉明)等豊臣恩顧の大名達と同様取りつぶされている。
在岡崎十年と、さして長くはないが田中吉政の岡崎での業
績は偉大であり、400年たった今日でも都市・河川の改革は
彼の業績として讃えられてよい。
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豊臣秀吉朱印状 |
天正12年、秀吉から所領宛行状をうけた田中吉政は岡崎城主となった。 以後10年間の田中吉政の支配は徳川体制から豊臣体制への転換といっても 過言ではなく、太閤検地・刀狩り・兵農分離・新城下町建設による武士商人 の集住化、河川改修などによる農業生産力の向上である。
吉政が近世岡崎に残した遺産は1つは城下町建設であり、他は矢作築堤で ある。
吉政は城の南側にあった従来からの主要道路の鎌倉道を城下に付け替え 「二十七曲(まがり)」と呼ばれる屈折の多い道を造った。街道を岡崎に引き入れたこ とは、城下町繁栄の基礎となり、のちに東海道五十三次有数の町として発展 するに至ったのである。
秀吉の譜代である吉政は「二十七曲(まがり)」を始め城郭の東側を堅固にする等、 関東の徳川家康に対する防備の備えをしたといわれている。又、城下町全体 を堀と土塁でぐるりと囲む総曲輪内にし、城の東に家臣団を、西に商人や職 人を分けて住まわせる大規模な都市改造を計画した。
兵農分離の施策は家康の関東移封によって土着の徳川の武士団全ての関 東移住によって武士と農業との切り離しが可能になった。また矢作宿から商 人や職人を移転させ、連尺町には商人、材木町には大工、鍛冶、指物などの職 人、肴町には城下へ魚鳥類を供給する商人が住んで専売権を持った。
又、城の西にある沼田を埋め現在の田町を造成、天神山を崩して現在の松 葉町・板屋町・材木町を開いたとあり、建築土木に長けた吉政ならではのも のであった。
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現代の岡崎市に残る「岡崎二十七曲」(大きな地図が出ます) |
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八丁味噌で有名な八丁蔵通り | 「東海道名所図絵」矢作橋図 |
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古い木看板の残る材木町の町並み | 「東海道名所図絵」岡崎宿図 |
文禄3年(1594)から吉政は矢作川の堤防作りに着手した。 矢作川の築堤に関する秀吉の朱印状は周辺の村落に吉政に協力 して人夫を出すように命じている。
この時代の河川は強固な堤防が無いため大雨の都度に流れが変 わり自然の堤が決壊し農作に影響することが大であった。工事は一 部川筋の流れを変える等規模の大きなものであったという、目的は 水害防止と耕地増大にあった。
矢作川の築堤が出来たことによって矢作橋の架橋が可能になり、 慶長3年に吉政に架橋普請の命が当時秀吉政権の五大老の筆頭 であった家康から出されたとされているが、矢作橋の完成は慶長6 年、吉政国替え後岡崎城主の本多康重によって完成している。
吉政の農政に関して「石川正西聞見集」には「毎日城の廻り見ま はりに出候て、普請下知して、朝飯は城よりべんとうを取りよせ、行 あい次第道のはた、堀はたにても飯をくはれ」とあり、寺の門前の植 木に換えて茶を植え、百姓 の屋敷の堀は埋めて田にさせ、秋になる と自分で収穫の良否を見て年貢率をきめ、百姓に喜ばれ、百姓の 失墜(離散)は地頭の損失と百姓に良き暮らしをさせることを信 条とし、罪人には首を切らず荒れ地を開墾させたと言う。吉政の 神社仏閣に対する過酷さとは対照的なものと興味深く、九州柳川 へ移封後の領民に対する善政の土台となる行いである。
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矢作橋杭震込図(東京都立大学蔵) |
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松平次郎三郎元信(家康)の高隆寺に対 |
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伊奈備前守忠次の黒印安堵状(宝福寺) |
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田中吉政寄進状(岡崎松応寺所蔵) |
岡崎には古くから松平・徳川家と関係の深い寺社が多い。これらの寺社は徳 川体制下では「寺社領安堵」でなかば独占的な権利を認めれてきた。
天正18年(1590)家康が関東に移封され、岡崎城に田中吉政が入城す ると翌年より寺社領の移転・没収や廃却の方針を展開した。
寺社の弾圧は従来の徳川色を一掃すること、関東の家康を仮装の敵として寺 社を砦としての機能を強要し高楼や頑強な壁を設置させる、又松平累代の 寄進の寺領を移転・没収する事により城下町拡張・整備の資金の捻出等もあ ったと想像される。
被害にあった寺社は岡崎十二社と云われた神社・松応寺・龍海院・満性寺. 大泉寺・善立寺他多数あり、滅脚になった寺社も数多く、多数の僧侶や神主 達が存続不可能の状態に追い込まれた。高隆寺では僧兵が抵抗した為放火 され寺領を没収、破脚した客殿を城の台所にし、大林寺では城の北に位置す る為「田中堀」を造る為に寺領は没収されたが寺の移転は吉政の耳が痛くな り念仏が聞こえたので取りやめになった逸話もある。
この為、岡崎では吉政は可憐誅求の大名として悪名を残すことになる。
しかし、徳川家に縁の深い大樹寺や真宗本願寺派の寺院には弾圧された記 録は残っていなく、これら吉政によって弾圧された寺社には吉政が九州へ移封 された後、徳川の代官伊奈備前守忠次により安堵状が交付された。
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現在の専福寺 |