時を経てもなお熱い田中吉政公への思慕

甲木 清 氏 遺稿

田中吉政は関ケ原の役で、西軍に味方した筑後の4大名立花宗茂・ 高橋直次・小早川秀包・筑紫廣門にかわり、慶長6(1601)年 1月、筑後藩主として入国しました。吉政の先祖は近江国高島郡田 中村に住んでいて、祖父嵩弘のときから田中姓を名乗り、父を重政 といいました。

吉政は関ケ原の役に、木曽川の支流墨俣(すのまた)川の上流江渡(ごうと)川の先陣を し、そのうえ西国の総帥石田三成を生捕りにした大功により、三河 国岡崎藩主(10万石、または9万5000石、或は10万5000 石とも)より、筑後一国33万1400石(32万5000石と も)を与えられて筑後に入国し、柳川城を本城としました。これま での四っの藩領が一つになって筑後藩ができたので、藩政の基礎と なる経済的な土台がひろくなり強固になりました。吉政は岡崎藩主 だったころ、岡崎城の西と南の二面は河川が流れていたので、残さ れた東と北に堀を掘り、城下町の主要部をなす六つの町は外堀(田 中堀)で囲む大工事を行い、土木工事に相当の経験を積んでいまし た。

吉政は豊富な経験を生かし、筑後の恵まれた経済的な基盤を十分 に活用するため積極政策を推進し、筑後藩政づくりを確実に進展し ました。吉政は筑後入国に先だち、徳川家康の重臣本多佐渡守正信 を通じて「筑後の様子を荒増し承りますと、新開が多く有るように 申しますので、筑後を拝領致したい」と申し上げたところが、大御 所より「随分国を広めよ。天下のためであるぞ」とのお言葉があり、 吉政は筑後入国のその月より葭野を新開にするよう、10郡の庄屋百 姓に命じました。吉政は自ら柳川城に居て海岸埋め立てに着眼し、 ただちに汐土居の築造に着手しました。浜武村(今の柳川市)より 新田村番所(三潴新田番所。今の大川市)のあたに至る本土居は吉 政の築いた土居です。その外にも本土居と呼ばれる沖ノ端平川町か ら大和町中島を経て、三池郡高田町渡里から隈川右岸に至る長堤が あり、本土居は32キロメートルもあります。この本土居は既存の 堤防を修築した所もあるが、新設した所もあります。

吉政は有明海岸、矢部川流域の新田開発だけでなく、筑後川沿岸 の開発を積極的に行い、慶長6(1601)年津村三郎左衛門に大 野島、古賀龍珍に新田村63町を開かせるなど、左岸地域の開発は 勿論、右岸寄りにある中州の葭野を開いて下田村(今の城島町)・芦 塚村(仝前)を筑後領にしています。

吉政は治水、利水にも意を注ぎ、筑後川、矢部川やその支流沖ノ端川の改修や二つ川堰・その他の井堰を修造し、また山ノ井川・花 宗川を矢部川の支流星野川より分水したともいわれます。

吉政は大城郭の建設を計画し、柳川城の修築・整備を行っています。柳川城は蒲池治久が蒲池の支域として築き、その孫鑑盛が本城として修築した城で、立花宗茂初封のころは規模が小さい城だったのです。

柳川城を筑後藩の本城とした吉政は城池を新しく掘り、これ迄の城に接してその西側に本丸を築き、石垣を高く積み重ねて壮大な5層の八つ棟造りの天守閣を建てました。沖ノ端川があまりに接近していて要害を欠くとして西方に掘りかえました。もとの川を古川と いっています。市街地の掘割は、遠い昔、約1260年前、奈良時代に施行された条里制(耕地整理)の掘割を改変したものであり、網の目のような掘割に満々と水をたたえる水郷になったのは吉政のころからといわれます。すなわち、名実ともに難攻不落の水城、名城柳川城とたたえられるようになったのは吉政のときからです。ところが、明治5年(1872)正月18日夜、怪火によって天守閣が焼失し、そのうえ柳川城の石垣は同8年、両開村の海岸堤防修復 用の石材として運び去られました。そして現在本丸・二丸・三丸跡はほとんど校舎・工場・住宅などに変貌しているとはいえ、掘割の大部分は昔の面影を残し、水郷柳川の名を全国に高からしめています。吉政はまた久留米の篠山城を修築し、梅林寺より瀬ノ下まで新 川を掘らせ、福島城も本丸・二丸を新たに築き、三井郡赤司城・山門郡鷹尾城・上妻郡黒木城・三潴郡榎津城・山門郡松延城、三池郡江ノ浦城を支城としましたが、その他の城砦は取り除いて開田しました。

また、柳川から久留米に至る行程20キロの柳川街道(田中道)、柳川から福島を経て黒木に至る行程24キロの新道を開いており、この両街道は今もなお主要幹線道路として交通・運輸、経済の発展に重要な役割を果しています。柳川街道に沿う下田町・金屋町・横溝町・大角町・土甲呂(とごろ)町・田川町・山野町・目安町・津福町などの町屋敷は御免地にしたので、所々の住民はあげて吉政の徳をたたえ御免地祭を行っています。

そのほか、高良山・水田天満・大善寺・江上山王宮・風浪権現・清水寺・日吉神杜・坂東寺・善導寺・東照寺・崇久寺・城忠寺等に神田・寺田を寄進し、蒲池村の家長方親に土器を造らせています。

吉政はまた、善導寺付近から高良山の西、西牟田村、山門郡の塩塚村を経て有明海に注ぐ、大運河計画をたて地域の発展・開発、大築港の建設を期していましたが、慶長14年(1609)2月18日江戸参勤のとき、京都伏見の旅亭において卒去しました。年62。 崇厳導越円光院(注 崇巌院が正しい)と号し、京都黒谷金戒光寺に葬りました。

柳川市新町にある田中山真勝寺は、浄土真宗東派。昔は真教寺といって、御井郡仁王丸村にありました。文禄年中(1592一96)立花宗茂の命により大屋小路(今の一新町)の所に移され、そののち田中吉政の菩提所として今の所に移し、吉政の遺体の野辺送りをして、本堂の下に埋めました。三代の住職は田中大膳の弟でありました。現在は草野氏が住職。

吉政の位牌は柳川市内の報恩寺・順光寺・玉樹院・光樹寺にも安置してあります。銘は多少相違がありますが道越は皆同じです。

なお、真勝寺本堂下にある墓石は高さ約1メートル、幅約70センチの四角柱で、先端がややとがっています。銘はありません。墓石の真上に本尊の阿弥陀如来像を安置した本堂があって、本堂自体が吉政の墓となっているといいます。大正6年(1917)、本堂を取り崩し、大正8(1919)年2月14日、御堂の落成式を挙行しました。

真勝寺の什蔵

田中吉政の墓は善導寺町善導寺・東京吉祥寺・京都黒谷龍光院にもあり、吉政を祀る神社・祠には久留米市津福、大木町土甲呂住吉神社境内社田中神社、大木町大字横溝神社兵部神社などがあります。

田中吉政の四男忠政は父の遺跡をつぎ、慶長15(1610)年筑後川右岸にある江島新島(有喜島。浮島)を菊池惣右衛門に開墾させ、同年緒方将監に道海島を開墾させています。 忠政は家康の畏父弟松平因幡守康元(久松氏)の娘を迎え、大御所の姪婿ともなっているので肥前の鍋島も泣きね入りをせざるを得なかったと思います。

ところが、慶長20(1615)年4月、大坂夏の陣のとき、病のため遅参して幕府の疑を受け、江戸に滞留して罪を謝していましたが、元和6(1620)年8月7日卒去し、嗣子がなくて家が亡び、国が除かれました。忠政は江戸滞留中、元和元年乙卯12月吉日に柳川市西蒲池の鳥居(肥前鳥居)を寄進しています。

忠政享年34年、江戸本郷吉祥寺に葬ってあります。法名陽嶽 院殿傑岫玄英大居士。三井郡山本村千光寺に忠政の墓があり、善導 寺に忠政の位牌があります。

このように田中吉政は慶長6(1601)年1月に筑後藩主として入国してのち、慶長14(1609)年2月に卒去するまで僅か9ヶ年の間に政策をじん速適確、積極的に敢行したその輝かしい治績はここで枚挙するいとまがありません。有明海・矢部川・筑後川沿岸の開発、それにともなう治水・利水工事、柳川城の修築・整備による大城郭建設の実現、久留米・福島城の修造、柳川久留米街道(田中道)や柳川・福島・黒木を結ぶ黒木街道の新設等々、吉政・ 忠政父子の治績と余恵は、はかるべからざるものがあります。

筑後に生をうけた私たちは、田中吉政・忠政両筑後藩主の治績に思いをいたすとき、その恩沢のあまりに宏大であることを驚嘆すると共に、その恩恵にむくいるため、筑後民一同しっかり手を取りあい、その顕彰に努むることは、最大の急務であり、私たちに荷せら れた義務と確信します。(文中敬称略)。