田中吉政公とその時代
半 田 隆 夫
大航海時代

大航海時代の世界(『新選日本史図表』第一学習社)
ポルトガルの航海者バーソロミューディアズは、1488年、 初めてアフリカの南端喜望峰(きぼうほう)を通過、これを「嵐の岬(みさき)」と命 名しました。
イタリアのジェノヴァ生まれの航海者 コロンブスは、スペイン女王イサベルの援助(えんじょ)を得(え)て、1492年、スペインのパロスを出発、キューバ・ハイチを発見、 94年にジャマイカ、98年に南アメリカ北部、そして1502年に、中部アメリカを発見しています。
このように、新大陸の発見をめざす「大航海時代」になると、 ポルトガルとスペイン両国の間に、植民や貿易の勢力圏争いがおこり ました。1494年、大西洋の真(ま)ん中(なか)を通る子午線(しごせん)で地球を2分す るトリデシリヤス条約が結ばれ、日本はポルトガルの勢力範囲(はんい)となったのです。
1497〜99年および1502〜03年に、ポルトガルの航海者ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を 回航(かいこう)してインドに渡り、東洋航路の発見者となり、 24年にはポルトガル領インド総督(そうとく)になっています。 ポルトガル生まれの探検家マゼランは、スペイン王カルロス一世に 世界周航(しゅうこう)を説(と)き、1519年9月、5隻(そう)の船を率(ひき)い、 西航(せいこう)して南米マゼラン海峡(かいきょう)を発見、太平洋に出て、 3ヶ月余でフィリピン諸島(しょとう)を発見しましたが、原住民に殺されました。 残った航海仲間によって22年9月、世界周航を成功させたのです。
1529年、サラゴサ条約が結ばれ、分界線(ぶんかいせん)が、ちょうど日本列 島を兵庫県の明石(あかし)あたりで2分、東日本はスペイン領、西日本はポ ルトガル領の勢力圏とされています。しかし、その当時、日本人は、 この条約と分界線の存在を知りませんでした。
世界に躍り出た日本
日本が世界の舞台に躍りでたのは、16世紀半ば、「鉄砲」と「キ リスト教」が九州に漂着(ひょうちゃく)してからです。
それまでの日本人の描(えが)いた世界は、日本・中国「唐(から)」・インド「天竺(てんじく)」の 「三国観(さんごくかん)」です。したがってインドよりさらに西に位置する ヨーロッパは日本人にとって未知(みち)の世界でした。
ヨーロツパ人にとっても、日本はイタリア人マルコ=ポー口の『東 方見聞録(とうほうけんぶんろく)』(1271〜95年、中央アジア・中国の旅行記)に「ジ パング」の名で紹介(しょうかい)された幻想(げんそう)の存在でしかなく、未知の国でした。
1543(天文12)年、ボルトガル人が種子島へ漂着、「鉄砲」 を伝来(でんらい)したことは、日本が初めてヨーロッパ世界と接触(せっしょく)したという 意味で重要な出来事(できごと)でした。
1549(天文18)年、イエズス会神父フランシスコ=ザビエ ルが鹿児島に漂着、「キリスト教」を伝えました。
日本でのキリスト教の布教(ふきょう)はサラゴサ条約の影響(えいきょう)で、東日本はス ペイン系のフランシスコ会、西日本はポルトガル系のイエズス会・ ドミニコ会・アウグスチノ会がそれぞれ伝導(でんどう)しています。
このように、「鉄砲」と「キリス ト教」の漂着という、偶然(ぐうぜん)な出来事によって日本は世界に躍りでたのです。
田中吉政公の出生の謎
キリスト教が日本に伝来した、その前年、つまり1548「天文(てんぶん)17」年、筑後国主田中吉政公は、田中重政の長男として近江国に生まれました。母は、浅井(あざい)郡国友(滋賀県長浜市国友町)の地侍(じざむらい)国友与左衛門の姉です。田中氏の出自(しゅつじ)については、江戸幕府が編纂(へんさん)した系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に、「先祖 は近江国高島郡田中村「滋賀県高島郡安曇川町(あどがわちょう)田中」に住し、伯耆守(ほうきのかみ)崇弘のとき田中を称号する』としています。「田中」という姓を基準 に、先祖のルーツを、近江守護の佐々木氏の庶流の高島田中氏としています。
一方、田中吉政の出身地を浅井郡三川(みかわ)「滋賀県東浅井郡虎姫町三川」とする説もあります。たとえば、慶長9(1604)年正月に、吉政自身が寄進した三潴(みずま)郡大善寺の玉垂宮の鐘の銘には、「生国江州浅井郡宮部縣子也(しょうごくこうしゅうあざいぐんみやべあがたのこなり)」とあったようです。そして、田中家は、吉政の 正嫡(せいちゃく)忠政「吉政の四男」に跡継(あとつ)ぎがなかったため廃絶(はいぜつ)しますが、本家を継(つ)がなかった吉政の長男吉次(よしつぐ)の系統や三男吉興(よしおき)の系統は旗本として家が残ります。このうち、三男吉興の家に係わる系図(柳川古文書館蔵)の、吉政の父重政の項(こう)に、「江州浅井郡三河(川)村に蟄居(ちっきょ)、病死」したと記述されています。蟄居は本貫(ほんがん)ですることが多い ことから、吉政の出身地を三川とする説も有力です。
このように、田中氏の出自と吉政の出身地は不確(ふたし)かですが、当時の戦国大名には一般的なことであって、その出自や生い立ちが明確(めいかく)な大名は限られており、田中吉政に限ったことではないのです。湖西(こせい)の高島郡田中村か、湖北の浅井郡三川村か、その出身地は、ひとまず謎とし、地元の人々が「海」と呼んで親しんでいる琵琶湖の湖辺(こへん)に生まれた、としておきましょう。
田中吉政家譜(抄)
侍への野望
吉政が生まれた16世紀半ばの北近江は、守護の京極(きょうこく)氏の支配力 が弱まり、代わって、その家臣であった浅井氏が多くの京極家臣団 や宮部・国友・石田などの地侍層を束(たば)ね、その支配力を強めていた のです。
吉政は、幼名を長政といい、まもなく竹、そして久次と改め、百 姓をしていました。ある日、畑の畔(あぜ)で、ひと休みしていると、そこ に侍が5、6人の若党(わかとう)を連れて、鎗(やり)を持たせて通りかかりました。 それをしみじみと眺(なが)めていた吉政は、自分も侍になりたいと思い、 百姓をやめて、浅井郡宮部(滋賀県東浅井郡虎姫町宮部)の地侍宮 部継潤(けいじゅん)に若党分「給分3石(ごく)」として仕えました(「続武家閑談」)。
ちなみに、石田三成は、浅井郡三川から南へ7キロメートルほど にある坂田郡石田村(長浜市石田町)の出身で、三川・宮部の地は、 姉川を挟んで国友・石田と隣りあった村々です。これら4ヵ村は、 浅井氏の本拠小谷(ほんきょおだに)城の南麓(なんろく)に位置し、宮部・国友・石田は、浅井氏 の家臣(地侍)でした。
吉政が元服したころには、浅井氏も3代目の長政のころとなり、 彼は、当時の新興勢力であった織田信長の妹お市を妻に迎えて同盟 関係を築き、若くして北近江の国人領主として領国支配を完成しつ つあったのです。
姉川の戦い
ところが、元亀(げんき)元(1570)年4月、浅井長政は、朝倉攻めの 最中であった織田信長を背後より急襲(きゅうしゅう)し、それまでの織田との盟約(めいやく) を破棄(はき)し、敵対関係にたつことになったのです。突然の出来事だっ たため、近江の湖北地方の宮部・国友・石田らの地侍たちは、何も 考える余裕(よゆう)もなく、地縁的な繋(つな)がりにより、浅井長政に従い、その まま2ヵ月後には姉川の戦いへと突入(とつにゅう)していったのです。吉政も、 宮部継潤の配下(はいか)として戦いました。この戦いは、両軍の戦死者が数 千人にも及ぶ激しい争いで、多くの家臣や地侍たちを失った浅井長 政は、居城の小谷城に立て籠(こ)もり、再起(さいき)を図(はか)らざるを得(え)なくなった のです。
この戦いの後、湖北の地には織田の軍勢が入り、地理的な中心地 で、要害(ようがい)でもあった横山城に知将木下藤吉郎秀吉が湖北攻略(こうりゃく)の先鋒(せんぽう) として籠もることになるのです。それから約3年間、小谷の浅井氏 が天正元(1573)年8月に滅亡するまで、近江全土にわたり、 織田と浅井・朝倉の抗争(こうそう)が繰り返されていったのです。
この間、宮部継潤は、元亀2(1571)年10月、秀吉の降伏 の誘いに従って信長に降伏し、浅井氏滅亡後湖北の領主となった羽 柴秀吉の家臣となりました。吉政も継潤の配下として秀吉に仕える ことになります。
信長は、浅井長政を攻略した恩賞として秀吉に旧浅井領の湖北3 郡(伊香・東浅井・坂田郡)を与え、また、秀吉配下にも領地を配 分しています。このとき、田中久兵衛(吉政)は、江州駆付(かけつけ)として 300石を拝領(はいりょう)しました(『武功夜話(ぶこうやわ)』)。
秀吉の長浜築城

現在の長浜城 (写真提供:江上憲一氏)
天正元(1573)年9月、秀吉は、一躍(いちやく)湖北三郡を支配する大 名となりました。城も、それまで浅井長政が居城としていた小谷城 が与えられ、一城の主(あるじ)となったのです。秀吉、37歳の秋でした。
いったん秀吉は小谷城に入ったのですが、まもなく小谷より南西 の湖岸沿いの「今浜」に築城をはじめました。その理由は、とくに 琵琶湖の舟運を重視したためと考えられます。
天正2(1574)年夏、秀吉は、築城と同時に城下町づくりを はじめました。築城工事は、1年以上もかかっており、天正3(1575)年秋ごろに秀 吉は小谷から今浜城に移り、地名を「長浜」と改めて天正10(1582)年まで在城し ました。最初、長浜町の年貢と諸役を免除して4ヵ年にわたる戦乱 によって疲弊(ひへい)した町と社寺の復興を計り、町 の安定と人心の安寧(あんねい)を計ろうとしています。
一方で、長浜城時代の秀吉は、そのほとんどの期間、信長の天下 統一の先兵として出陣しています。
天正3(1575)年5月3日、長篠(ながしの)の合戦に参陣し、翌4 (1576)年には、信長から中国経略を命じられています。
鳥取城攻め

鳥取城付近
天正9(1581)年6月、姫路城に滞在していた秀吉は、2万 の大軍を率いて陸と海から鳥取へ出陣しました。山名豊国に替わっ て吉川経家が守る鳥取城は、要害堅固な城でした。秀吉は、城から 東1・5キロメートルにある太閤ヶ平に本陣を構え、鳥取城.雁金山・丸山を完全に包囲す る陣型をとりました。また、海上には、丹後勢を出動させ、 城への糧道(りょうどう)をたったのです。
8月になると、食糧が極端に不足し、餓死者(がししゃ)がではじめ、牛馬をも喰い、 はては死人の肉をとりあうという悲惨(ひさん)な状況となりました。世にいう「鳥 取のかつやかし殺し」です。
一方、毛利の援軍は、伯耆や因幡で、釘づけにされ、来援は期待できなかったのです。経 家は、城内の惨状(さんじょう)をみるに忍びず、10月25日、城中で切腹し、 城を開け渡しました。中村春続・塩谷高清ら重臣も陣所で自刃(じじん)したのです。
その他の城兵たちは、安芸からの加番衆も含めて許され、城外へ でました。秀吉は、彼らが食糧不足のため、疲労衰弱していたので、 特に城の麓でかゆを用意し、長期の籠城をねぎらったといいます。
秀吉は、鳥取攻めに功労のあった宮部継潤を鳥取城代としました。 このとき、田中吉政は、与力として1500石を宛行(あてが)われています。
近江八幡時代の吉政
その後、秀吉の甥(おい)、豊臣秀次が、一時宮部継潤の養子になった関 係から、秀吉の命令により、吉政は秀次の傳役(もりやく)として仕えたのです。
天正13(1585)年閏8月22日、秀次は、四国攻めの恩賞 とて、秀吉より自分領20万石、宿老分23万石、合わせて近江に 43万石の所領を与えられ、近江八幡城主となりました。吉政は、 その宿老の一人として3万石を与えられ、「関白(秀次)殿一老」として、若 い秀次の側近として仕えました。
吉政は、同年11月20日には、野洲の市場に対して諸役を免じ て領内の商業振興を図り、翌14(1586)年8月1日には、野 洲郡迩保庄井水の争論を秀次の下知に従って裁いています。
同16(1588)年3月17日、従五位下、兵部大輔に叙任(じょにん)。 翌17(1589)年には、他の宿老とともに虎姫町中野と湖北町 青名・八日市の用水争論を裁いています。
このように、吉政は、近江八幡城の八幡堀の開削や井水・用水の 争論の裁許など、若い秀次の側近家老として領国経営に手腕を発揮 しました。
岡崎十万石の城主

豊臣秀吉朱印状(柳川古文書館蔵田中文書)
天正18(1590)年7月5日、秀吉の小田原攻めにより、小 田原城主北条氏直が降伏し、約一世紀の間、関東で覇権を握ってい た北条氏は滅亡しました。北条氏の旧領の武蔵・相模・伊豆・上野・ 上総・下総の6ヵ国は徳川家康に与えられ、7月18日、家康は、 江戸城に入りました。
家康の旧領には織田信雄(信長三男)を転封させることにしてい ましたが、信雄は父祖の旧地尾張を離れることを拒否したため、秀 吉は大いに怒り、下野那須へ追放し、2万石を与えて身柄を佐竹義宜に預けたのです。
家康の旧領は、秀吉の直臣(じきしん)に分割給与され、三河国では岡崎5万7400石が 田中吉政、吉田15万石が池田輝政に与えられ刈谷・緒川1万5000石はそのまま 水野忠重に安堵(あんど)されました。 遠江・駿河・甲斐・信濃国には山内一豊・仙石秀久ら5人の直臣が入部しました。 そして尾張国には秀吉の甥秀次が入封したのです。
天正18年1月20日、吉政は、秀吉から所領宛行状(あてがいじょう)を受け、
岡崎城主となりました。
於参川國額田郡内合弐万九千九百七拾五石、同賀茂郡内合弐万七千四百四拾六石、都合五万七千四百石事、令扶助訖、目録別帋有之全可領知候也
天正十八 十月廿日 ○(秀吉朱印) 田中兵部(吉政)大輔とのへ
吉政の所領は、その後加増され、文禄5(1596)年7月27日には10万石の大名になったのです。
田中吉政の所領増大(『新選岡崎市史』近世)
年月日 | 石 高 | 所 存(累計、注) | 出 典 |
---|---|---|---|
天正18.10.20 | 57,400石宛行 | 額田郡29,975石、加茂郡27,446石(計57,421石) | 田中文書2 |
〃 20. 1.11 | 3,000石加増 | 伊勢国三重郡内(計60,421石) | 〃3 |
文禄 3. 9.21 | 3,O09石加増 | 伊勢国三重郡内5か村(上記の再宛行、計60,430石) | 〃4 |
〃 4. 8. 8 | 30,000石加増 | 三河国西条、尾張国知多にて(計90,430石。次項の数字と合致せず。誤伝かあるいは減知あるか) | 寛政譜 |
〃 5. 7.27 | 14,252石6斗加増 | 高橋郡26か村、本知85,758石 (計100,010石6斗) | 田中文書5 |
吉政の岡崎城主時代、つまり慶長5(1600)年まで の10年間は、西三河が徳川的体制から豊臣的体制へ改編 された時期といえます。
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田中吉政公肖像 | 田中時代の筑後の城(大きい地図が出ます) |
西軍の大将格石田三成をつかまえた田中吉政に対し、家康は、豊 前国に豊後の一部を加えた領地か、筑後一国か、所望(しょもう)する方を30 万石与えることを約束しました。吉政は、家臣たちを集めて、家康 のことばを伝え、豊前と筑後、それぞれの出身の者に、両国の長所 と短所を尋ねることにしました。家臣団の中に、直人は1人もいま せんでしたが、又内(またうち)に豊前の者2人、筑後の者1人がいました。そ の結果、吉政は、筑後国を所望します、と家康に返答しました。有 明海沿岸は、遠干潟(とおひがた)ですから、葭野(よしの)を開拓すれば、4、5万石の新 田開発が可能であり、その上、三潴と山門の二郡では、赤米が多く収穫されていたからです。 こうして、慶長6(1601)年3月、吉政は、西軍に組して除封(じょふう)となった 毛利秀包(ひでかね)・立花宗茂の筑後国に、32万5000石の大名として柳 川城へ入部したのです。
吉政は、城の要害に備えて規模を拡大し、城濠を掘り、石塁を高 め、五層の天守閣を建て、これを本城(居城)としました。そして、 前代以来の旧臣・土豪(どごう)、さらに毛利・立花両氏の遺臣が土着割拠(かっきょ)す る在地の情勢に対応して、立花氏と同じように支城駐屯(ちゅうとん)制度を布(し)き、 一門・功臣(こうしん)を城番として支城に配置しました。
吉政は、次男吉信(よしのぶ)を久留米城に、三男吉興(よしおき)(康政)を福島城に、 舎弟清政を赤司(あかじ)城に、元小早川重臣松野主馬を松延城に、家臣(譜 代)宮川才兵衛を鷹尾城に城番(城代)として入れ、さらに猫尾・ 城島・榎津・江浦の支城に重臣をそれぞれ配置しました。
田中吉政の本城と支城
本城
本城名 | 本城主名 | 所在地 | 知行高 | 系譜 |
---|---|---|---|---|
柳川城 | 田中吉政 | 山門郡 | 325,000石 | 本人 |
支城
支城名 | 支城主名 | 所在地 | 知行高 | 系譜 |
---|---|---|---|---|
赤司城 | 田中左馬介清政 | 御井郡 | 2,840石 | 吉政舎弟 |
久留米城 | 田中主膳正吉信 | 御井郡 | 不明 | 吉政嫡子 |
城島城 | 宮川讃岐守 | 三潴郡 | 6,800石 | 譜代 |
榎津城 | 榎津加賀右衛門 | 三潴郡 | 3,260石 | 譜代 |
福島城 | 田中久兵衛康政 | 上妻郡 | 30,000石 | 吉政三男 |
猫尾城 | 辻勘兵衛 | 上妻郡 | 3,650石 | 譜代 |
江ノ浦城 | 田中主水正 | 山門郡 | 3,860石 | 譜代 |
鷹尾城 | 宮川才兵衛 | 山門郡 | 6,OOO石 | 譜代 |
中島城 | 宮川才兵衛 | 山門郡 | 同上 | 同上 |
松延城 | 松野主馬 | 山門郡 | 12,OOO石 | 元小早川重臣 |
※「慶長七年台所入之掟」、『筑後将士軍談』、『江浦旧記』、「田中家臣知行割帳」、
「田中吉政知行宛行状写」、
『石原家記』、より作成。
※(譜代)は、岡崎以来の家臣とする。
吉政の九支城のほかに、伊万里市親種寺所蔵の絵図には、大和町 大字中島字二重(にんじゅう)に「中島城」が画かれており、鷹尾城番宮川才兵衛 が兼務しています。
これら九支城と中島城以外の城塁(じょうるい)は、口分田甚左衛門に破壊させ、 田畑に開墾しました。これを「口分田開き」といいました。
筑後入国法度
吉政は、筑後国に入国早々、慶長6(1601)年4月10日に 三ヵ条の入国法度を発布しました。その一部を次に示しておきます。
一、諸奉公人、上下によらず、在々(ざいざい)において非分(ひぶん)の儀、申し懸け侯においては、曲事(くせごと)に申しつくべき事。
一、山林竹木伐り採り申すまじきこと。
一、逃散(ちょうさん)の百姓、早々還住(かんじゅう)せしむべく侯。遅れて立ち帰り侯においては、その者の田地、望次第に余人に申しつくべく侯。
第一条で、奉公人の道理に合わない違法な行為を禁止しています。 第二条で、山林竹木の伐採を禁止しています。第三条、逃散百姓「走(はしり) 百姓」の早期還住(帰村)命令について規定しています。特に遅れ て帰村する者の田地は没収するとしています。
関ヶ原の戦いの戦後処理により、豊臣系大名の多くは改易され、 領地没収や減封による移動が発生しました。大名や家臣だけでなく、 百姓も他村や他領へ欠落し、逃散しました。このような農民の移動 (走百姓)は全国的に発生したのです。慶長6(1601)年から 寛永6(1629)年までの29年間に、中国地方から豊前国規矩(きく) 郡六手永に流入した「入百姓」は511件、1563人。 年平均17・6件、54人を数えることができます。これは、規矩郡の人口 の1割にあたる流入人口です。豊前小倉には、「周防町」・「長門町」 という「町」が立つほどでした。
隣国の関係上、筑後と肥前佐賀、相互への「走り」はかなりあっ たようで、慶長20(1615)年4月晦日には、田中と鍋島両藩 主の間で「人返し」についての協定を次のように結んでいます。
是以前の者(走百姓)は互いに打ち置き、慶長二十年五月朔日 より、先様(さきざま)の走者如何躰(いかがてい)の出入候共、異儀無く指返し申すべく 候間、両国共其郡代へ届次第、相違無く指返し申すべき事
(「直孝公御代」上、『長崎県史』所収)
筑後から佐賀、佐賀から筑後、それぞれの走百姓のうち、 慶長20(1615)年4月末日までの「走百姓」は、走り先にそのまま 安住してよいが、5月朔日以降の「走り」は、いかなる理由があろ うとも、これを許さず、元の村へ還住(帰村)させること、という 協定です。
慶長本土居
徳川家康に、筑後国の領地を所望した吉政は、入部早々、葭野(よしの)を 新田に開発するように、10郡の庄屋・百姓に命じました。新田を 開発して領地を増やし、年貢増徴を図って藩財政の基盤を確立する ための施策(せさく)でした。「慶長七年台所入の掟」(東大史料編纂所蔵中川文書)に、
一、山門郡の内、たか尾村よりみづまぐんさけみの北おき村迄のつゝみねおき、かさ置、はねほり候て上候跡、
ふかさ六尺に、はゞははねの土取候ぶんにて、おもてのつゝみへ相付候。人足は山門郡・みづまぐん・下つまぐん三郡の人足
にて、中三日の間、つゝみにゐなりにこれを請け取り、人
足相つめ候て、八月六日より八日迄に急度(きっと)申し付けらるべ
く候。いよいよ土取り候様子は、はねの絵図にて申し渡し
候なみに仕るべき事。但、堤のほり様の様子は、宮川才兵
衛に申し渡し候。同よこめ奉行・三奉行より壱町壱町に一
人づゝ、奉行相付けられ、自分のよこめには才兵衛・甚太
郎・勘三郎・市兵衛四人相任ずる事。
とあります。
慶長7(1602)年8月6日より8日までの3日間、山門.三 潴・下妻三郡の人足を動員して、山門郡鷹尾村(大和町鷹尾)より 三潴郡酒見の北沖村(大川市北酒見)までの大規模な築堤工事(「堤根置」・ 「嵩(かさ)置き」・「羽根掘り」)が行われました。深さ6尺(1・8メートル) を前後に掘り、その掘り起こした土を堤に積みあげて固 める土盛り築堤工法です。羽根の絵図(設計図)を基に、築堤の工 法は、宮川才兵衛(鷹尾城番)が指示しました。32キロメートル 以上におよぶ工区の1町(約109メートル)ごとに、よこめ奉行 「田中織部(たなかおりべ)・塙八右衛門(はなわはちうえもん)・北村久右衛門」・三奉行「宮川佐渡・磯野伯耆(いそのほうき). 石崎若狭(いしざきわかさ)」のうち1人ずつが立会い、それぞれの工区で横目4人が 細部にわたり現場指揮をおこなったのです。
「慶長本土居」は、大川市北酒見から柳川市〜大和町〜高田(たかた)町渡瀬(わたぜ) までの有明海沿岸40キロメートルにおよぶ潮止め築堤工事(慶長12年までに完成)です。
土を盛りあげて築堤し、湿地(しっち)や干潟地(ひがたち)を農地に開発するこの本土 居工事は、すでにできていた堤防を修築したところもありますが、 その多くは新設されたものです。この築堤工事で苦労したのは、 潮止(しおど)め口の新設です。吉政は、柳川市佃町(つくだまち)新田の潮止め口が完成した 慶長12(1607)年、本土居上に新田龍神(りゅうじん)の石の祠(ほこら)をつくり、 供田(くでん)3反3畝3歩.(約3302平方メートル)を寄進しています。 毎年、秋祭りには風流が奉納されてきました。
この「慶長本土居」の完成により、有明海沿岸の高潮被害も減少 しました。吉政・忠政の父子は、慶長本土居の外側に、新田を開発 して行きました。大川市南端の新田村は、古賀龍珍が吉政の許しを 得て開かれたといわれ、紅粉屋開(べにやびらき)は柳川の豪商紅粉屋七郎左衛門の 開発によるものです。大和町鷹尾の慶長本土居の外側「現、瀬高町 大字河内字田中小路(しょうじ)」にも吉政が開いた新田があります。
このほか、吉政の新田開発の奨励によって、慶長6(1601) 年には、津村三郎左衛門によって、筑後川の中州「大野島」(195町=195ヘクタール)が開拓され、 同15(1610)年には中古賀村の土豪緒方将監が村民を率いて肥前側の住民と争った末、 潟地の開墾に成功し、道海島(60,9町=60,9ヘクタール)を開拓しています。
その後、立花宗茂公をはじめ、歴代の藩主や家臣・豪農・豪商・ 領民らによって干拓の開発が有明海に向かって積極的に進められま した。「慶長本土居」は、現在、ほとんどが道路として多くの人々に 利用されています。
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久留米城と柳川城を結ぶ街道(大きな地図が出ます) | 当時の面影を残す田中道(柳川市矢加部) |
吉政は、入封早々、柳川城と領内に配置した八支城(赤司・久留 米・城島・榎津・猫尾・松延・鷹尾・江浦)とを結ぶ交通路の整備 をしました。これら八っの道のうち、特に柳川城と久留米城を結ぶ 道は、「田中道」あるいは「柳川往還」・「柳川道」(久留米藩古図)・ 「久留米道」・「久留米海道」(慶長10年、「田中吉政仕置の条々」) などと呼ばれる重要な道筋でした。
慶長7(1702)年7月25日付けの「慶長七年台所入之掟」(東 京大学史料編纂所影写本、中川家文書)に、
とあります。 慶長7年に、柳川〜久留米間の新道(田中道)が作ら れたのです。そして、同8(1603)年の「田中吉政公事(くじ)免許状 写」『「田中興廃記(こうはいき)」』に、
三潴郡の内、ところ(土甲呂)町新儀に相立候分、諸公事免除 せしめ候間、たれたれより役義申懸候共、此折紙にて相理(ことわる)べき者也
慶長八年 十月十七日 吉政(花押影)
とあり、慶長8年に、柳川往還筋に「土甲呂町」が新立され、諸公 事が免除されています。また、同時に「津福町」が新しく町立(ちょうだ)てさ れているのです(「筑後歴世古文書」)。
この田中道のコースは、次のようなものでした。
柳川城下━矢加部町━金納村━下田町━金屋町━八丁牟田村━横溝町━大角町━土甲呂町━小犬塚村━
上野宿━安武町━津福町━久留米城下
この「田中道」のうち、□のところが宿駅(人馬継所)です。
土木の神様

吉政公を祀る祠(大木町土甲呂・住吉宮境内)
吉宗公の柳川在任期間は、慶長6(1601)年より同14(1609)年までの、 わずか8年間ですが、城(本城と八支城)づくり、城下町づくり・新町(津福町・ 土甲呂町・大角町・横溝町・下田町など)づくり・道(田中道など)づくりのほかに、 矢部川の水を柳川の街に導き、「掘割に浮かぶ街」をつくりました。そして慶長本土 居の築堤、有明海沿岸の干拓、筑後川・矢部川の治水工事、山ノ井 川・花宗川その他の小川・溝・堀などの水利系路の整備をしました。 また、溝口の和紙、蒲池の陶器(蒲池焼)、上妻の茶、下妻の藺草(いぐさ)な ど、郷土の産業を盛んにしました。
吉政がつくった「田中道」の道筋には、久留米市津福本町の津福 八幡宮境内の「田中神杜」、大木町土甲呂の住吉社境内の「吉政公を 祀る祠」、同町横溝町の「兵部(ひょうぶ)神社」など、吉政ゆかりの小社が点在 し、「土木の神様」として、地元の人たちに、ひっそりと祀られています。
慶長14(1609)年2月18日、吉政は、江戸参府の途中、 伏見(京都市)の旅亭(りょてい)で遊仙(ゆうせん)しました。享年62歳。法号は、「崇厳 院道越円光院」、また、「大格院殿前筑州大守従四位下 釈桐厳道越 大居士」とおくられ、遺骸は金戒光明寺(京都市黒谷)と真勝寺(柳 川市)に葬られています。西翁院(京都市黒谷)と真勝寺を菩提寺 とし、真勝寺では田中氏一門の住職(草野氏)によって追善法要が 営まれています。
田中家の断絶
慶長14年4月3日、吉政亡き跡、四男忠政が襲封するや、これ に対する兄康政の反抗、藩主対家老、譜代家臣対国侍(くにさむらい)の対立という 形で、いわゆる「御家騒動」が起こり、そのため忠政は、元和元(1615)年 の大坂夏の陣に遅参し、7年間の江戸滞留を命じられました。
しかし、二代目忠政は、父吉政の遺志を継ぎ、在任中、道海島・ 江島村などの開拓をしています。
元和6(1620)年8月7日、忠政は、江戸滞留中、36歳で 病死しました。跡目(あとめ)の嫡子(ちゃくし)がなく、兄康政も近江国への所替(ところが)えを命 じられ、筑後における田中家は断絶しました。
しかし、吉政・忠政父子が筑後、そして柳川に残した功績とその 遺徳は、現在も、心ある人たちによって密(ひそ)やかに、そして深く顕彰 され、語り継がれています。
〔参考文献・論文〕
『田中吉政資料集成』安曇川町商工会
『新選日本史図表』第一学習杜
『長浜市史』2 長浜市史編さん委員会
『宮部善浄坊継潤公』宮部史談会・字宮部区
『新編岡崎市史』3近世 新編岡崎市史編さん委員会
『田中興廃記』田中吉政公顕彰会、柳川古文書勉強会
『豊臣政権の研究』戦国大名論集十八
『岡崎市史研究』第九号
『徳川家康文書の研究』中村孝也著
『織豊期の政治構造』三鬼清一郎編 吉川弘文館
『豊臣秀次』小和田哲男著 PHP新書
『研究紀要』第二十七号 岡崎地方史研究会
『岡崎宿・伝馬』岡崎市伝馬通商店街振興組合
『八女市史』上巻 八女市史編さん専門委員会
『筑後市史』第一巻 筑後市史編さん委員会
『久留米市史』第2巻 久留米市史編さん委員会
『大和町史』大和町史編纂実務委員会
『大木町誌』大木町誌編さん委員会
「田中吉政の半生」宮川弘久著
「田中吉政について」太田浩司著
『九州の歴史と風土』半田隆夫著
『角川日本地名大辞典』40福岡県 角川書店