田中時代の社会と歴史

田中吉政公の年譜

年・月・日 西暦 年齢 関係事項 典拠
 天文17・ 1548 1 田中重政の子として近江国に生れる。 寛政重修諸家譜
柳川古文書館所蔵田中系譜
天正 9・ 6・29 1581 33 宮部継潤配下として鳥取城を攻める。 因幡民談記
天正12・ 4・ 6 1584 36 小牧長久手の戦に、三好秀次に従い出陣する。 太閤記・田中興廃記
10・24 丹波の国福知山の天寧寺への乱暴を停止する。 天寧寺文書
天正13・ 3・20 1585 37 根来寺攻めに加わり岸和田千石堀砦を落とす。 太閤記・田中興廃記
     閏8・23 豊臣秀次の八幡山入封に伴い、「関白様御家中衆」として八幡に在城する。 豊臣政権の研究
        (戦国大名論集18)
      9・30 近江国長命寺の寺領安堵の旨伝える。 長命寺文書
     11・18   近江国百済寺に仏供燈明料13石余の地を寄進する。 百済寺文書
11・20 近江国野州市場へ諸役免除の旨を伝える。 野州区有文書
  この年、四男忠政、近江国に生まれる。 寛政重修諸家譜
天正14・ 8・ 1 1586 38 近江国野州郡迩保庄井水の論争を秀次の下知に従い裁く。 野州郡史
10・10 秀吉生母大政所の岡崎行きについて、途中警護を命じられる。 柳川古文書館所蔵田中文書
天正15・11・13 1587 39 近江国浅井郡谷田山々王宮弥勒寺池を寄進する。 谷田神社共有文書
11・29 近江国成菩提院の寺領21石を安堵する。 成菩提院文書 
天正16・ 3・17 1588 40 従五位下、兵部大輔に叙任。 寛政重修諸家譜
11・14 近江国谷田山社人に対し、新開地の年貢納入を命じる。 谷田神社共有文書
天正17・ 3・20 1585 41 近江国愛知郡大萩村の用材林管理を同所の五郎二郎に命じる 滋賀県愛知郡大萩、
村山家文書
4・21 長浜甚介に対し、伊部町に着いた荷物と問屋方を裁かせる。 南部文書
8・17 近江国浅井郡中野村の井水の裁断を秀次奉公衆と共に下す。 池野文書
天正18・ 8・25 1590 42 小田原から凱旋する秀吉に付いて岡崎城に入り、城を受け取るが、城は家老の宮川吉久等に預け、吉政自身は尾張の支配のため岡崎を離れる。 岡崎市史研究第九号
専福寺文書
8・30 尾張国の土豪坂井利貞に秀次御書を下付する旨を報ずる。この外、9月にかけて同様の文書が20通近く残っている。 愛知県三好町、
酒井久子氏所蔵青洲町史ほか
10・20 この日、秀吉より三河国額田郡・加茂郡5万7400石の朱印状を与えられる。 柳川古文書館所蔵田中文書
天正20・ 1・11 1592 44 伊勢国三重郡において3000石の知行を秀吉より与えられる。 柳川古文書館所蔵田中文書
文禄 2・ 1・29 1593 45 吉政生母、岡崎にて死す。 誓願寺文書
閏9・21 伏見城建築用材木の準備と大鋸引きの動員を、近江国大萩村の五郎二郎に命じる。 滋賀県愛知郡大萩、
村山家文書
文禄 3・ 3・ 6 1594 46 宮川助作知行分を脇坂右兵衛に充てたことを近江国伊香郡東柏原村・井之口村庄屋に伝える。 滋賀県湖北町丁野、
脇坂市所蔵
9・21 三重郡の3000石について改めて知行目録を授けられる。 柳川古文書館所蔵田中文書
文禄 4・ 8・ 8 1595 47 三河国西尾・尾張国知多郡において3万石を加増される。 寛政重修諸家譜
9(闕) 三河国吉良領の台所分(2015石)の代官を石崎源吾・坂本彦太郎に命じる。 滋賀県長浜市、
石崎俊雄氏所蔵
文禄 5・ 7・27 1596 48 三河国高橋郡において1万4252石を加増され、合わせて10万石の大名となる 柳川古文書館所蔵田中文書
慶長 5・ 7・26 1600 52 東軍の先鋒として西上するにあたり、家康より、佐和山に入ったなら逃げ散った地下人を速やかに還住させるよう命じられる。 柳川古文書館所蔵田中文書
7・29 西上途中に家康より、黒田長政・池田輝政と共に再度相談するよう要請を受ける。 徳川家康文書の研究
(戸田家文書・黒田家文書)
7・30 この日家康は、藤堂高虎に福島・池田の他に田中吉政ともよく相談するよう書状を送る。 徳川家康文書の研究
(藤堂文書)
8・23 吉次(吉政長男・民部少輔)は、福島正則等と岐阜城を攻め落とす。また、吉政勢は、この日、合瀬川を渡り、石田勢を破る。 史籍集覧16「兵部殿覚書」
田中興廃記所収文書(坂本氏)
9・15 東軍諸将と共に関ヶ原において西軍と戦う。 諸書
9・17 敗軍の将の捜索を家康より命じられ、東近江一円に布告を出す。 岡崎市史
9・21 吉政江州北部越前境において石田三成を捕縛する。 徳川家康文書の研究
(因幡志・細川家記)
9・22 石田家臣中島宗左衛門父子を捕らえたことを褒められる。また、その後、石田三成生け捕りの報を受けた家康は、その功労を褒め、吉政自身が召し連れてくるよう指示する。 徳川家康文書の研究
(譜牒余禄20細川豊前)
(月日未詳)     この間、嫡男吉次と不和となり、勘当する。 田中興廃記
 慶長 6・ 3・ 1601 53 この月、筑後国32万5000石の領主として柳川城に入部する。 寛政重修諸家譜
4・10 筑後国夜明村大庄屋孫兵衛に3ヶ条の入国法度を下す。 久留米市史(「河原文書」)
7・ 3 筑後領内の有力社寺(高良大社・水田天満宮・山王宮・日吉神社・風浪権現・大善寺・清水寺・東照寺・崇久寺・城忠寺・坂東寺・善導寺など)および家臣に対する知行宛いを行う。 久留米市史
(第8巻に14通収録)
7・28 柳川の真教寺の京都本願寺見舞に付き道中の便宜をはかるとともに、家臣をして本願寺坊官粟津勝兵衛に仲介を依頼させる。 柳川市真勝寺文書
12・ 1 家臣以下庄屋に対し、年貢勘定の仕方について指示する。 滋賀県長浜市、
石崎俊雄氏所蔵
慶長 7・5(闕) 1602 54 筑前国の鋳物師、平井忠三郎を50石余で召し抱える。 久留米市史(「平井文書」)
7・25 三奉行及び横目奉行の6人に55ヶ条からなる「台所入掟」を示し、領内支配の徹底を図る。 滋賀県長浜市、
石崎俊男氏所蔵
8・6〜8・8 慶長本土居40キロのうち大和鷹尾より大川北酒見までの32キロの有明海沿岸坊潮堤防をわずか3日間で山門・三潴・下妻3郡の領民総出で築く。 東大史料編纂所蔵中川文書
慶長8・ 3・ 7 1603 55 筑後国三潴郡の堤・用水の采配を大庄屋孫兵衛に任す。 久留米市史(「河原文書」)
3・25 従4位下、筑後守に任ぜられる。 続武家補任
7・6 筑後国三井郡古賀村(現、若松村)の新左衛門に帯刀を許す。 久留米市史(「岩橋文書」)
10・17 筑後国三潴郡の土甲呂及び津福町に対し、諸公事を免除する。 「筑後歴世古文書」所収
10・28 家臣田中清政(左馬丞・久七郎)に、人馬・武具の役儀を6ヶ条にわたり改めて命ずる。 筑前田中家文書
慶長 9・1・25 1604 56 筑後国大善寺玉垂宮に紀三井寺の鐘を寄進する。 太宰官内志
5・12 竹生嶋神事のため米100石を贈る。 竹生嶋文書
11・7 土器師、家長彦三郎を筑後の土器司に命じる。 久留米市史(「家長文書」)
      久留米瀬の下に筑後側に通ずる新川を開いて舟運の便を計る。又、安武堤防の工事に着手する。 久留米市史
慶長10・2・ 1 1605 57 台所入り村々の4ヵ年間の貸し米合計2万石を、改めて割符するよう三奉行・諸代官に命じる。 滋賀県長浜市、石橋俊雄氏所蔵
9・16 三奉行・大横目に対し、江戸普請を控えて25ヶ条の仕置きを命じる。
キリシタンに好意を示し、天主堂用の土地を寄進する。
滋賀県長浜市、
石橋俊雄氏所蔵
イエズス会年報
慶長11・1・30 1606 58 二男吉信(主膳正)死ぬ。 柳川市玉樹院過去帳
5・11 この頃、江戸普請は過半ができる。 久留米市史(「大鳥居文書」)
6・27 江戸普請を終え、この頃、伏見に帰る。 久留米市史(「大鳥居文書」)
慶長12・6・27 1607 59 上妻郡藤田村と三潴郡上荒木村との井水争論を裁く。
柳川の佃町神田の潮止め口が完成し、「慶長本土居」上に新田龍神の石の祠をつくり、供田3反3畝3歩(約3302平方メートル)を寄進する。 柳川を訪れた神父バエスを大いに歓待し、銀20枚を贈り、天主堂の聖像にあてるため、1万2000デンエを喜捨する。家臣多く洗礼を受ける。
久留米市史(「梯文書」)
改訂柳川地方干拓誌
(「東宮永村神社明細帳」)
イエズス会年報
慶長13・3・27 1608 60 上妻郡に対し、畠作台帳の提出を命じる。 久留米市史(「稲員文書」)
4・20 三潴郡内夜明組3ヶ村に対し、農民全員を柳川に集める。 久留米市史(「河原文書」)
9・7 村々に対し、山口玄蕃地詰帳(文禄検地)と新開帳の速やかな提出を命じる。 久留米市史(「河原文書」)
9・12 提出の遅れている夜明組に対し、催促するとともに、提出次第、見地を行うことを命じる。 久留米市史(「河原文書」)
慶長14・2・18 1609 61 江戸に向かう途中、山城国伏見において死す。崇厳院道越円光院と号する。遺骸は金戒光明寺(京都黒谷)と真勝寺(柳川)に葬る。西翁院(京都黒谷)真勝寺を菩提寺とする。 当代記ほか