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実 施 日 :2018年5月13日(日曜日)
*日時: 5月13日(日)9時00分受付開始・10時00分出発,14時解散
*参加費:1,000円 (弁当、お茶、保険付き)
*参加人数:21名
*内容:水郷柳川の「百選の道」を、さるき(歩き)
田中吉政公、立花宗茂公ゆかりの神社仏閣等を、めぐり(巡り)
句碑をさぐる(探る)旅を計画しました。
*9時集合 西鉄柳川駅西口広場 約6`、3時間の行程
*西鉄久留米駅 8時33分発 大牟田行き特急で柳川駅下車
9:30→ 西鉄柳川駅集合→受付資料の配布→準備体操
10;00→スタート「瀬高門跡」瀬高から三池街道柳川への入り口
10:30→真勝寺→田中吉政公の菩提寺→水辺の散歩道をさるく
11:00→日吉神社 トイレ休憩、長谷健文学碑、吉政公銅像
11:30→天叟寺 立花宗茂(柳川初代藩主)の実父高橋紹運の墓所
12:00→良清寺 立花宗茂の正室・ァ千代の菩提寺
12:30→辻町の道標 此処を起点に一里石、ニ里石が置かれた
13:00→三柱神社 昼食
14:00→解散
本日のご案内は、柳川町つくりボランティアガイド「蒲原廣幸」氏
西鉄柳川駅で まずは準備体操で体を解します。
本日の参加者記念撮影
さあ〜出発です!
4百年前に造られた柳川城堀水門
掘割の説明と感心する隊員
「瀬高門跡」瀬高から三池街道柳川への入り口
真勝寺
慶長16年柳川藩初代藩主田中吉政公が深く帰依した寺院で、
その遺命により二代藩主忠政がその遺骸を葬り、
その上に伽藍を建立したという。 本堂自体が吉政の墓である。
田中吉政公の墓標と白秋の詩碑
真勝寺の正門
寺町通り
水郷柳川の「川下りの船」
立花藩剣道指南役 渡辺泰嗣の家
北原白秋の門下生 宮柊二の歌碑
水辺百選の景色 栴檀(栴檀は双葉より芳し)
木村緑平の句碑
自由律の俳人木村緑平は、中学伝習館を経て、長崎医学専門学校へ
俳人・種田山頭火を、経済的、精神的に支えた援助者でもあった医師。
田中吉政公銅像
関ヶ原の合戦の功績により三十三万石を与えられ柳川城を居城とした。
干拓事業・道路網の整備・天守閣の改築・河川や掘割の整備を行い、
現在残る掘割の基礎を築いた。
田中吉政公の偉業を伝える
水辺の散歩道
天叟寺 立花宗茂(柳川初代藩主)の実父高橋紹運の墓所
天叟寺の趣のある裏庭
良清寺 立花宗茂の正室・ァ千代の菩提寺
良清寺の正門
辻町の道標 此処を起点に一里石、ニ里石が置かれた
三柱神社
社名の由来は、祭神として藩主の一族立花宗茂など三人が祀られている
文政9年(1826〜) 藩親立花宗茂公、夫人及び岳父戸次道雪公の三柱を祀る宮
戦没者の慰霊碑
水害から立ち直った本殿
待ちに待った昼食の食事処「よし」の入口の庭
ニ階に準備されたお弁当 お茶で乾杯!
美味しいお弁当と暖かいお味噌汁 疲れも癒やされる
食事も終わって解散 お疲れ様でした〜
最後は雨の中での探検でしたが、無事終了
柳川の歴史
柳川地域の歴史は、約2千数百年前の弥生式土器が柳川市郊外の蒲池地域に
出土していることから古く、その頃からこの地域で稲作が始まったと推定されている。
都市としての柳川は、戦国時代に柳河城主の蒲池氏の城下として生まれ、
安土桃山時代は田中氏の、江戸時代は立花氏の柳河藩の城下町となり現在に至る。
秀吉の九州仕置によって、高橋紹運の実子で立花道雪の養子となった立花宗茂が
南筑後13万2千石の領主として柳河城に入城した。宗茂は朝鮮出兵に従軍し活躍したが、
1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたため所領を没収された。
立花氏に代わって、関ヶ原で石田三成を捕らえる功を上げた田中吉政が
岡崎城から筑後国32万5千石の領主として柳河城に入城し、柳河藩を立藩した。
吉政は柳河城周辺の掘割整備のほかに、五層天守閣の構築に着手するなど、
柳川の城下町としての基礎を整えた。さらに、矢部川の治水、有明海の干拓堤防の
築堤(慶長本土居)、荒地開墾、交通網の整備(久留米柳川往還、現県道23号線)に
よって藩の財政的な基盤を固めた。
田中氏は2代で無嗣断絶。この間、立花宗茂は関ヶ原後に浪人となったが、
徳川家康に引き上げられ陸奥棚倉3万5千石の大名となっていた宗茂は、田中家断絶後の
旧領柳河に10万9千石の大名として返り咲き、以後明治まで立花氏が藩主となる。
1862年には現柳川市出身で横綱土俵入りの不知火型の創始者とも言われる
雲龍久吉が10代横綱となる。
久留米ん町探検も今回が19回目
秋の探検で20回を迎える節目に 終了とさせていただく事になりました。
皆さんも心待ちにしていた有意義な探検でしたが、何時かは来る時です。
何か良いアイデアがあればお知らせ下さい。また楽しい集いをしたしましょう!