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荒木校区の文化財

文化財

荒木校区の大部分を占める荒木町白口・荒木・下荒木・今・藤田は久留米市の南端に位置し、筑後市・広川町・三潴町に接しています。荒木町が旧三潴郡筑邦町から久留米市に編入合併したのは昭和42年のことで、既に30年が経過しました。

荒木校区で人々の生活の営みが見られるのは弥生時代に入ってからです。寺脇遺跡や宮脇遺跡では集落や墓地が確認されている他、鬼木遺跡や天神浦遺跡では当時としては貴重であった青銅器(銅矛)が出土し、この地にかなりの権力を有する集団が存在していたことを物語っています。  古墳時代になると、校区の至る場所で古墳が築かれます。ほとんどの古墳は後の時代の開発によって壊されてしまいましたが、二子塚古墳・鷲塚古墳・豆塚古墳といった前方後円墳も見られ、旧本書紀』に登場する「水沼君(みぬまのきみ)」という豪族の墓ではないかと考えられています。数多くの古墳が築かれた一方で、当時の生活跡は一の左右遺跡で竪穴住居跡が1軒見つかっているにすぎません。

『和名類聚抄』

平安時代に書かれた『和名類聚抄(わみょうるじょうしょう)』には、現在の久留米市の南西部を含む三潴郡の中に「荒木郷」の名が見えます。この荒木郷の中心地と考えられるのはJR荒木駅の西側辺りで、ここには飛鳥〜奈良時代にかけて営まれた白口経塚遺跡があり、数多くの土器が出土しています。また旗原遺跡からは同じ頃の一般集落も確認されています。荒木町白口には源右衛門城戸・西屋敷・寺屋敷といった字名が現在に伝わっています。一帯には白口中村館跡や荒木近藤氏館跡があり、鎌倉〜室町時代にかけて当地を支配していた有力者が存在していたことが分かっています。こうした遺跡の近くからは中国や東南アジアなどから輸入された陶磁器も多く出土し、支配者の権力が窺えます。荒木校区にはたくさんの遺跡がありますが、発掘調査が行われずに破壊された遺跡も多くあり、校区歴史解明には今後の調査の進展を待たねばなリません。

天神浦遺跡の
銅矛

 江戸時代の元禄十年(1697)と享保七年(1722)の二度にわたり、現在の広川町との境界にある天神浦池の堤を築いた時に合計18本の銅矛が発見されました。銅矛とは弥生時代のお祭りに用いられたもので、本来は武器として使われていたものです。358本もの銅剣が出土した島根県の荒神谷遺跡ほど大掛かりなものではありませんが、入里離れた山奥になぜ埋め置かれていたのかは謎です。18本の銅矛の内、現在その所在が明らかなものは高良大社などに奉納されている5本のみです。

二子塚古墳

荒木小学校の敷地内にあったと伝えられる古墳で、土地の造成や田`畑の開墾によって消滅し、現在はその姿を見ることができませんが、小学校にはその時に出土したと伝えられる埴輪や須恵器などが保管されています。また昭和50年、校舎の増改築に伴う発掘調査が行われ、その結果、全長50mほどの前方後円墳であったことが確認されました。

鷲塚古墳

全長50〜60mの前方後円墳で、公園建設の時、前方部と思われるところから石棺が発見され、小形の(イ方)製鏡(ぼうせいきょう)1点が出土しました。現在は前方部は残っていませんが、後円部の一部が整備され、広場として活用されています。

豆塚古墳

昭和23年、荒木中学校のグラウンド新設に際して壊された古墳で、規模や石室などは明らかでありませんが、前方後円墳であったと考えられています。破壊時には鉄刀2本、家形埴輪、須恵器の坏・壷などが出土したと伝えられ、現在、荒木中学校と福岡教育大学に保管されています。

一の左右遺跡

三潴町との境界に位置する遺跡で、弥生時代の甕棺墓や古墳時代の竪穴住居跡などが見つかっています。古墳時代の住居跡は、荒木校区だけでなく、市内でも発見例が小ないため.当時の人々の住まいや暮らしぶりを探る上で貴重なものです。

白口経塚遺跡

JR荒木駅前の宅地造成に伴い、和51・52年に発掘調査が行われ、飛鳥〜奈良時代にかけての井戸やゴミ捨て穴などの生活跡が発見されました。井戸の底からは表面に赤色の顔料が塗られた土器や、植物の種子なども出土しています。出土した土器の組み合わせや、遺跡の位置から見て古代の「荒木郷」の中心地にあたるのではないかと考えられています。

旗原遺跡

平成9年度の発掘調査で飛鳥〜奈良時代にかけての掘立柱
建物跡やゴミ捨て穴、溝などが見つかりました。主屋と倉庫がセットで見つかっていることから、当時の一船的な村落と考えられます。

荒木近藤氏館跡(立小路遺跡)

鎌倉時代の御家人として荒木一帯を支配していた近藤氏の館跡です。近藤氏に関しては「荒木近藤氏文書」と呼ばれる多くの古文書の写しが現在に伝えられ、中世の歴史を考える上での貴重な史料となっています。発掘調査では館跡に関わる遺構は見つかっていませんが、中国から輸入された青磁・白磁などが出土しています。また東方150mに位置する小寺遺跡からは、この近藤氏の館に向かうと考えられる道路の跡も確認されました。

白口地蔵菩薩
彫像板碑

有形民俗文化財として市指定となっている板碑(扁平な石に仏像を彫り込んだもの)で、菩薩の右側には応永十一年(1404)の銘が記されています。

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