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南薫・合川校区の文化財

文化財

南薫・合川校区は、校区の北側を九州でも有数の大河である筑後川が流れ、その筑後川に向かって突き出た台地状の地域に文化財が多く分布しています。南薫・合川校区に人々の営みが見られ始めるのは今から約7500年前の縄文時代早期のことで、合川町市ノ上北屋敷遺跡や東合川町上遺跡で多数の土器が発見されています。市ノ上北屋敷遺跡では縄文時代中期の瀬戸内地方の土器とよく似た土器もまとまって出土しており、今から約5000年前には既に久留米と瀬戸内地方との交流があったことが伺えます。弥生時代に入ると台地の北端部に人々が暮らし、東櫛原今寺遺跡や古宮大林遺跡などで集落、南薫稲荷遺跡や市ノ上北屋敷・西屋敷遺跡などで墓地が確認されています。古墳時代の状況は現在のところよく判っていませんが、飛鳥時代〜平安時代には合川町に筑後国府が置かれ、筑後国の政治・文化交通・軍事などの中心地として栄えていました。


戦国時代

平安時代終わり頃には櫛原が太宰府安養寺の荘園となり、合川校区も京都醍醐寺、高良社の領地となり、領地の所有権を巡る争いが度々起こりました。戦国時代にも豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏との間で筑後を巡る激しい争いの舞台となり、天正13(1585)年には筒川を挟んで両者の合戦が行なわれています。中世の文化財として寺町医王寺には応永5年(1793)銘の地蔵菩薩彫像板碑が残されています。

江戸時代

江戸時代になると有馬氏の城下町整備によって寺町が形成され、蛍川付近は下級藩士の宅地が並び鉄砲小路と呼ばれていました。通町の町屋は東へ広がって行き、/646年頃までには通外町まで延びています。五穀神社の祭礼は城下の有力商人達がからくりなどの出し物を競い合い、御繁盛と呼ばれるほどの賑わいを見せていました。城下町は繁栄していたものの久留米藩の財政は苦しく、その対応策の一つとして現在の福聚寺の裏山に朝妻焼と呼ばれる陶磁器の窯を開き、有田など肥前の焼物に負けない品質の製品を生産しましたが、藩財政の助けとはならなかったようで僅か20年程で窯は廃止されています。その跡地には藩の祈願寺として福聚寺が創建され、多数の古文書工芸品などを今に伝えています。

幕末には

幕末には通外町から久留米紺を考案した井上伝が、通町十丁目からは現在の東芝を創立した発明家からくり儀右衛門こと田中久重が生まれ活躍しています。全国各地を遊説した勤王家の先駆者高山彦九郎は時勢をはかなんで東櫛原で切腹し、寺町遍昭院に墓所があります。

南薫・合川校区は筑後川の恵みを受けて発展してきましたが、一方、度々起こる洪水の被害は深刻な問題で、人々は洪水の際の避難所として床を高くした水屋を造るなどの工夫によって生命や財産を守ってきました。合川小学校に残るあげ舟は昭和28年の洪水時に実際に児童の避難に使われたもので、校区の人々の水との戦いを物語る貴重な資料です。

史跡筑後国府跡国指定

1期政庁 2期政庁

大化の改新(645年)によって中央集権による政治体制が確立すると、ごとに国府が設置され、中央から派遣された国司を中心として政治が行なわれました。筑後国はそれまで筑紫国と呼ばれていた福岡県西部地域が7世紀の終わり頃に筑前・筑後国の2国に分割されて成立した国で、筑後10郡を管轄する役所として合川町古宮地区に最初の国府が置かれたと考えられています。 筑後国府跡の調査は、昭和36年全国の国府調査の先駆けとして九州大学によって行なわれ、現在も久留米市教育委員会によって継続されています。その結果、古宮地区に置かれた国府は、その後合川町枝光地区→朝妻町→御井町横道地区へと転移しながらも、天皇や貴族を中 心とした世の中から、武士が中心となった中世に至るまで存続していたことが、長年の調査・研究によって明らかとなっいます。

ヘボノ木遺跡跡

ヘボノ木

東合川3丁目一帯に広がる遺跡で、昭和53年から調査が継続して行なわれています。その結果、縄文時代後期・晩期の土器・石器や墓地、弥生時代中期・後期の集落、平安時代後期から中世にかけての墓地などが発見されていますが、 最も栄えていたのは奈良時代〜平安時代始め頃で、役所、もしくは寺院と考えられている掘立柱建物を中心とした遺構群や、筑後国府と太宰府や竹野・生葉郡の役所とを結ぶ道路などが発見され、その性格を巡って注目されている遺跡です。

東櫛原今寺遺跡市指定

弥生前期

 櫛原中学校周辺に広がる遺跡で、弥生時代前期から終末期に及ぶ集落や甕棺墓、鎌倉時代のお墓や室町時代の溝、石に一文字づつお経を書いて納めた江戸時代の穴などが見つかっています。その中でも中心になるのは弥生時代で、石器を作っていた住居や食糧を貯めておくための大きな穴など、弥生人の生活が窺える貴重な資料が得られています。



石丸遺跡

石丸遺蹟

櫛原天満宮周辺の石丸遺跡は、今寺遺跡に住んでいた弥生時代の人々の墓地と見られる遺跡で、多数の甕棺墓が調査され、銅矛や管玉なども出土しています。天満宮の楼門の裏にある大石は、甕棺墓の上に置かれていた石と伝えられていますが、こうした埋葬法は支石墓と呼ばれ、朝鮮半島で流行した埋葬法が伝えられたもので、鳥類センター西側に広がる南薫遺跡で調査された甕棺墓群の中でも一基発見されています。

市ノ上北屋敷・西屋敷遺跡

銅鏡

 久留米市営球場の外野席側に広がる台地上にある遺跡で、縄文時代から江戸時代までの多数の遺構が調査されています。その結果、市ノ上北屋敷遺跡からは、縄文時代中期にすでに久留米と瀬戸内地方との交流があったことを物語る土器や弥生時代前期の甕棺墓が発見され、市ノ上西屋敷遺跡では弥生時代中期の甕棺墓群や終末期の石棺墓などが発見され石棺墓からは銅鏡も出土しています。 また、中世には大きな溝に囲まれた有力者の館があったことも判りました。

福聚楽亭

 高良山山麓から北西に延びる丘陵上には多数の古墳が造られていましたが、現在はその大半が破壊され、消滅しています。 福聚寺古墳群は僅かに残る古墳の一つで、現在も福聚寺の裏山に数基の古墳があります。
その一つは江戸時代に発掘され、当時の発掘の様子を記した記念碑が福聚寺境内に建てられています。その碑文によれば、古墳には内側を朱で塗った長さ6尺余り(約1.8m)の箱式石棺があり、その中に頭を東へ向けて埋葬された遺体が発見されたと記録されています。

朝妻焼窯跡

朝妻焼窯

久留米藩6代藩主有馬則維の時代に開かれた陶磁器の窯で、『石原家記」などの文献によると正徳4年(1714)頃から十数年間のみ操業されたと伝えられています。現在、福聚寺の裏山、西鉄バス池ノ谷停留所の北側にその一部が残っています。製品は有田や伊万里から招いた工人によって、碗・皿など日用品、色絵などの高級品などが生産され、製品の中には「朝」「朝」銘が記されたものもあり、朝妻焼の最大の特徴となっています。


下見遺蹟

下見遺跡

 九州縦貫道久留米インターチェンジの北側に広がる遺跡で、昭和52年から9回の調査が行なわれ、 奈良時代から平安時代の集落、中世の有力者の屋敷、近世の墓地群が発見されています。 特に奈良・平安時代の集落では、奈良時代に竪穴住居が主であったものが、奈良時代の終わり順から平安時代の初め頃にかけて掘立柱建物へと変化していく様子を追うことができ、国府が存在した時代に暮らした一般の人々の生活が窺える成果が得られています。

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