葡萄は世界一作付け面積が多い果物です。世界での葡萄の品種は2000を超えますが、戦前の日本で目にすることができたのは甲州葡萄を含め、およそ3種類はどでした。静岡の中伊豆町で栄養周期説を提唱していた大井上康博士の苦労に苦労を重ねた品種交配(石原早生とオーストラリアの世界一の巨大粒といわれるセンテニアル)により「巨峰」は1940年に一房の実をつけ産声をあげました。その苗は戦中の果樹亡国諭などの茨の道を乗り越え、戦火をもくぐりぬけてきたのです。
果物界の一大革命 「巨峰」誕生が歩んだ茨の道
若竹屋とアメリカ青年日本酒とスキヤキの夜の贈り物
1946年、終戦間もない田主丸町に、ある日アメリカ人がやってきました。彼の名はジエームス・M・ヘスター、駐留米軍・教育課長として在福していた金髪碧眼の若いアメリカ青年は田主丸の村人たちに民主主義とはなにかを流暢な日本語でわかりやすく語ったそうです。その晩、ヘスターさんの宿となったのは老舗の造り酒屋若竹屋酒造でした。若竹屋の十二代目、林田博行氏はスキヤキをつつき、酒を飲みかわしながらヘスターさんと夜遅くまでこれからのまちづくりについて語り合ったといいます。
「なぜあなたがたアメリカさんはそんなに体が大きいのかの?」と尋ねる十二代目に「それはミルクや肉など良質なタンパク質をいっぱいとっているからです。わたしは一日にミルクを6合(1リットル)飲みましたよ。民主主義も大切ですが将来を担うこどもたちの身体をつくることも大切です」と、乳牛がこれからの地域振興につながること、こども達にもっとも必要なタンパク源であること、そして「できるだけ牛を集め立派なこどもたちを育てていきなさ い」とヘスターさんは熱く語りました。「ヘスターさん、こんな田舎でも牛を手に入れることができるだろうか?」博行の口調もだんだん熱を帯びてきます。「北海道に牛はいます。我々も最大の援助をしましょう」ヘスターさんは米軍の協力を約束したのでした。
勉強せんといかん
こうして3年間で200頭もの乳牛が田主丸へとやってきましたが、牧草の不足から酪農は8年で行き詰まってしまいました。多くの酪農家は再び田畑へ戻り、新たな農業の指針を建て直そうと模索します。失敗にめげす踏み越えていこうというスピリットは素晴らしく、一致団結して田主丸の農業の再生に賭けていました。「これからは百姓でも勉強せんといかん。田主丸に先生ば呼んで技術ば身につけようや」その想いが越智通重先生との出会いを生んだのです。越智先生はまったく新しい葡萄品種「巨峰」を品種交配により生み出した大井上康博士の一番弟子だったのです。しかし、この葡萄は戦中戦後の混乱や学会での不遇で日の目を見ず、全国に栽培例はありませんでした。
田主丸の再生を賭け、47人の農家たちは貧しい生活の中から集めた開設資金をもとに越智先生を招き、研究機関「九州理農研究所」を設立することになりました。
葡萄畑に立つ越智通重。大井上博士の栄養周期説は、あらゆる植物は発芽から枯れるまで同じ育ち方をするのではない、つまり枝が伸び葉が増える春から夏、枝が硬くなり果実が熟する夏から秋と、その段階に応じた手入れや施肥をするという今となっては当たり前のものだった。しかし、在野の学者であったがゆえにその説は日の目を見ず、誕生した巨峰も博士と愛弟子の越智が細々と育てているにすぎなかった。
栄養周期説に興味を持った田主丸の農民がつくりあげた九州理農研究所は、全国でも例のない農民による農民のための研究所である。彼らを中心に、より高品質な巨峰の栽培を追及する「果実文化」という機関紙も発行されていた。農民たちは毎日のように研究所に通い、議論し、時に越智が愛する酒を酌み交わしながら、巨峰栽培の情熱を語り合っていた。
『巨峰』をこの地で
もともとは稲作栽培研究を主な目的としていましたが、研究をすすめるにつれ「大井上博士の意志『巨峰』をこの地で花開かせることができるかもしれない」と越智先生は考えていました。この土地が山砂まじりの排水性の高い土の上になぜか十分に肥えた地力を備えていたからです。その土はヘスターさんとの出会いから導入された牛達の糞が染み込んだものでした。
その後周囲の理解を得て越智先生が持ち込んだ葡萄の苗木は研究所による技術指導と田主丸農家四十七士の熱心な栽培によって、悲願の大粒の実をつけたのでした。いまや田主丸は巨峰の誕生により、全国初の「観光果樹園(果物狩り)」という商法を編み出し「巨峰ワイン」を生むなど巨峰のふるさととして知られています。
巨峰誕生の地での再会
ヘスターさんとの出会いから53年後の平成11年の巨峰開植40周年の夏、このドラマに興味をもった田主丸の人々はヘスターさんの消息をたどりました。すると、田主丸を訪れた翌年に帰国し、その後再釆日して75年には東京青山の「国連大学」の初代総長としてその創設にかかわったこと、75歳で健在であり、グツゲンハイム財団のトップでアメリカ教育界の重鎮であることがわかりました。若竹屋酒造の博行氏は92歳で長崎で療養中でしたが当時のことを鮮明に語ってもらう中、一通の手紙にヘスターさんから返事が届きました。そこには町の産業へ思わぬ寄与ができたことへの驚きと喜び、そしてもしできるならば田主丸を訪れてみたいとの一文が記されていました。その知らせに博行さんはこう言ったそうです。「もしあなたが日本に来ることがあったら、もう一度スキヤキを食いたかな。巨峰ワインと一緒にの。」
情熱を失わず
こうして、再会はその年の秋の「巨峰ぶどうとワイン祭り」で実現し、ヘスター氏を迎え、町をあげての歓迎レセプションが行われました。
巨峰の町、田主丸。その陰には民主化の波にもまれながら、数奇な出会いや多くのふれあい、いくつもの壁にぶつかりながらも情熱を失わず努力を続けた人々の姿があります。この「巨峰物語」は小さな劇となり、水縄小学校のこどもたちがへスター氏の前で演じました。酔っぱらった越智先生が田主丸の地にようやく実をつけた一房の葡萄をみつけ、苗を抱きながらみんなを呼ぶラストシーン。
「巨峰じゃ。巨峰の実じゃあ。」
巨峰ワインの巨峰畑の一角には、越智先生感謝の石碑があります。40年の時を経てもなお「巨峰」の芳紀な味わいは、宝石のように人々の心をとらえてはなしません。
ぶどう開植40周年での再開の時、へスターさんに贈られた版画。11月のワイン祭りでは、碑の前で越智先生を偲んで、「遥かなる友<が歌われる。田主丸で最初に巨峰を植えた歴史の記憶も薄れつつある中、その歌にぶどうの園のおっちゃまたちは涙する。/p>
11月のワイン祭りでは、碑の前で越智先生を偲んで「遥かなる友」が歌われる。 田主丸で最初に巨峰を植えた歴史の記憶も薄れつつある中、その歌にふどう園のおっちやまたちは涙する。
●ぶどう狩り
白い紙袋は花嫁衣装
手をかけた巨峰が実る秋
苦節の未に誕生した田主丸の巨峰は、当初市場でも大きな話題となりましたが、民間の研究と開発への風当たりは強く日の目を見ない日が続きました。そこで巨峰農家は直接この巨峰の魅力をお客さんにアピールする作戦をたて、観光バスで田主丸を訪れてもらい、試食会や宣伝を行ないました。これが大当たりし、全国でも例のなかった「観光農園ぶどう狩り」が誕生。山辺の通が大渋滞となるほどの人気を博しました。8月初旬、巨峰の収穫が始まると、道沿いには白い袋から紫色の大粒がのぞく巨峰が並べられ、多くのぶどう狩り客で賑わいます。
田主丸の巨峰。冬の間は枝の選定、3月には棚に勢いよく伸びて行く枝をうまくからませていく誘引をおこない、5月に実がつくと綺麗な房をかたちづくる為に一房一房を整える。梅雨に居る頃、まだ青いぶどうに袋をかけ、その中で、ぶどうは甘く色づき、ようやく収穫の時期を迎える。
●観光柿狩り
耳納の里を染め上げる
柿若葉に柿紅葉
ぶどう園とならび田主丸に多い柿園は、耳納山の麓に春と秋に彩りをそえます。万葉の時代から歌にも歌われた柿の木の風情もさることながら、斜面一面の柿の若葉の新緑のまぶしさ、柿紅葉の美しさはまた格別です。秋には、多くの柿狩り客が訪れます。