和銅元年(708年)の開基と伝えられ、和銅6年(713)、九州五県にまたがる「九州西国観音霊場」の第十九番札所となった観音寺は13の末寺と筑後守から与えられた75町の寺領を持つ筑後路最大のお寺でした。
行基菩薩はお寺と仏法を守るために観音寺の東側に「玉垂宮」いわゆる「神宮」を建てられました。これが、今の石垣神社であり生葉郡(浮羽町と吉井町)、竹野郡(田主丸町)、山本郡の総本社として氏神信仰の中心となりました。鎌倉時代に観音寺の住職となられた「金光上人」は筑後守として赴任した道君首名の子孫です。
高良山に学び比叡山で修行した金光上人は32歳の時石垣山観音寺の住職として寺を大いに復興しました。観音寺にいまなお伝えられる牛鬼退治の上人とも伝えちれ、浄土宗の開祖法然上人の直弟子となった名僧です。日本最古(884年前)埋蔵紙本「法華経」が納められた青銅製の経筒が出土するなど、寺宝も数多く、木造毘沙門天立像は県の指定文化財で、見事なハルサザンカの木は町の文化財に指定されています。
「ゴーンゴーン」と突鳴らす時ならぬ鐘の音に、和尚さんは驚いて目を覚ましました。「はてな、此の夜中に誰が鐘をついているのだろう。」とつぶやきながら、和尚さんは床から起きてそっと鐘突堂に忍び寄りましたが、そこには何者の姿も見い出し得ませんでした。そして来る夜も来る夜も此の不思議な出来事が止みませんので、遂に決心した和尚さんは鐘突きに来る者の正体を見届けようと、その夜遅くから木陰に身を隠し時の来るのを待っていました。
夜が次第に更け渡ってゆきます。そこへ、風のように現れ出た怪物は、何と顔は牛、体は鬼、というとても物凄いものでした。しかし、和尚さんは、泰然自若として経文を読み続けるのでした。ところがどうでしよう。さすがの牛鬼も神通力を失って五体の自由さえ失っていったのです。そして夜のほのぼのと明け放たれる頃、集まった村人達によって怪物の手は斬りとられ、写は附近の山に埋められ、その山を名付けて「耳納山」というようになりました。
樹齢約350年のハルサザンカは、他に花の少ない12月から3月にかけて開花する。満開となる2月中頃にはハルサザンカをたたえる「さざんか祭リ」が開催され鑑賞会や小演奏会、ぜんざいなどの無料接待で賑う。
耳納北麓は群集墳が特に多いところで、果樹園の開墾によって壊されたものも少なくありませんが、江戸時代に書かれた「寛延記」には膨大な数の記録が残されています。 田主丸町内には群れをなした円墳が多く、その数は確認されているだけでも300基あまり。いずれも6世紀後半の古墳時代後期のもので、豪族などの権力の象徴というよりは、各集落の家族墓といったもののようです。 田主丸きっての桜の名所平原公園をとりまく県指定史跡の森部平原古墳群は70基の巨大な群をなし、周囲の大塚清長橋古墳群76基、大塚古墳群7基を加えるとその数153基にもおよぴます。桜の下に古墳が寄り集まっている様は圧巻です。
平原公園をのぼったところに「エグ水」があります。エグ水とはあくが強くのどをいらいらと刺激する水、つまりえがらっぼい水の意味ですが、実は鷹取山の六合目に湧くまろやかでおいしい石清水です。 久留米藩主有馬公が鷹狩りに出て、獲物を追って疲れたので山道わきの石清水を飲んだらとてもおいしかったので、その水を樋を設けて久留米まで導水すると言い出しました。地面を掘って樋を通すのは一苦労、水不足になっては一大事と、困った農民たちは知恵をしぼり「あの山の水はエグい」といいふらし、殿様の気まぐれな計画はいつしか沙汰やみとなりました。苔むした石垣の下からわき出す名水を小さな地蔵様が見守っています。
平原公園から見渡す田主丸の町。
寺徳古墳は6世紀の後半につくられた装飾古墳です。直径20m、高さ3mの墳丘で複式の横穴式石室の入り口は西の方に開けられています。石室は全長8.3mで、壁面には同心円文、三角文が鮮やかな赤・緑で彩られており、装飾は暗い黄泉への路を照らすために描かれたなど、様々な説があります。奥室及び前室には5ないし6つの同心円文が二段三列に緑を豊富につかって彩られており、棺を安置する重要な場所であることがわかります。明治29年に発掘され、金環、勾玉、管玉、鉄鏃、馬具の一部などが出土し、昭和43年に国指定史跡に指定されています。
嘉永6年(1853)に書かれた「筑後国史」に「山辺街道の南側にあり、当国一の大塚なり」とある田主丸大塚古墳は、後円部の直径が60m、全長103mの前方後円墳です。 平成4年度からの調査で高度に組まれた葺石や石室の入り口などが確認され南側斜面上に前方部をのばす大型前方後円墳であることがわかりました。6世紀の後半に築かれたと推定され、その時期では九州最大の規模を誇ります。
村人がこの古填の前にたって「明日はお祝いです。何人前お膳をお願いします」と頼んでおくと、翌朝ちゃんと塚の前に用意されていて、村人は塚の神様に感謝しながらお椀をもとどおり返していた。ところが−人の強欲な村人がお椀を返さなかったため、どんなにお願いしてもお膳は二度と出てこなくなり、強欲な村人も村から姿を消してしまったという。人々はこの大塚のことを「御膳塚」と呼んでいた。
三明寺は天平17年(755)、初代国司としてなった筑後守道君首名公以釆、400年もの間、十五代が竹野の長者と尊ばれて住んだところで、本丸、二の丸、井の丸などが残り、現在「長者の井戸」 と観音様が残っています。この長者の井戸はかつて清冷玉のような清水がわき出て水をくむつるべの音が昼夜絶え間なく筑後随一の井戸といわれていました。 この井戸の冷たい水は地元の人々の冷蔵庫でもあった。
壇ノ浦の戦いに敗れた平知盛は、わずかの家釆を伴って筑後の国にのがれてきました。世はみな源氏に傾く中、知盛の行方もわからないはずはなく、村人に「平家はもう負けてしまったが、平家の一将平知盛が、今日までこの里にいたということを後世に伝えてくれ。妻子と部下をくれぐれも頼む」と言い残し、源氏方となった草野氏に討たれたといわれています。知盛の死をかわいそうに思った村人たちがその霊を弔ったといわれる平知盛の墓が竹野の地に残っています。