そ の 他

三十二、磐井の応永地蔵

所在地御井小学校東・磐井の清水横

(おこもり堂内) (正面) 右 願衆十五人 敬白 左 応永十一年甲申二月三日(一四〇四)

磐井の地蔵

磐井の地蔵

(裏) 道 衆 講 本 貧 阿 弥 性 就  高 安 宗 覚     道 高     圓 妙     了 阿 弥     善 清     二 良 左 ェ 門     馬 尭 良     道 玉     立 貞     兵 衛 三 良     夜 九 良

三十三、高良内横馬場の応永地蔵


所在地 高良内町横馬場・延命地蔵敷地内

横馬場の地蔵

横馬場の地蔵

(正面)右 奉 造立地蔵菩薩時誦結衆敬白 左應永十一年甲申十一月十五日(一四〇四)

三十四、ドイツ人墓


所在地 競輪場内

1ドイツ人墓

正面

(病死人名) (右) k o c h e m o a n s i m o n b o s l e r s a n c s c h l u n d

(左) p a u l y w e r n e r k e t t g e n d o n i t s b a u e r

zum-gedachtniss  den kameraden  die fern der  heimat starben  ← (左) →   ← (正面) →  ← (右) →  ← (裏) → (訳)遥か異国に斃れし同志の思い出に

裏

(裏) s c h w e r t e n t w u n d e n d u r c h s c h i ck s a l s m a c h t g e f a n g e n g e b u n d e n s a n k t i h r z u r n a c h t (訳) 剣を奪われ運命の力により 捕虜と捕われし汝ら黄泉へと下る

ドイツ人墓

ドイツ人墓

2 遺徳之碑

「ガン爪発明者久郎兵衛翁」

ガン爪

ガン爪

 九郎兵衛翁は元禄三年、今の国分町西村の笠七左衛門の二男に生れた。少年の頃他村に養子に行ったが、独立で一家を起すことを決心して村に帰り、高良川辺りの浦川原の開拓を始めた。雨や雪にもめげず、毎日川原の石を取り除いて砂畑を作り杉松等を植え、或いは地下げして山から赤土を運び入れ水路を通すなど、数年後には不毛の川原一帯にみごとな田畑を作った。翁の努力は藩当局に認められ恩賞として耕地への課税が免除された。日頃から、翁は農耕技術の改良の志しが厚かった。
 宝永六年、夏に字社田の溝辺りで山カニを捕え逃げようとして泥地に爪をかき立てる姿から工夫して作成したのがガン爪である。それまで田の草取りは鍬や鎌で田の土を打ち返し多大の労力が費されたが、翁の発明により除草はたやすくなり、ガン爪は筑後一帯から諸地方へまでたちまち流行した。時の藩主有馬則継は翁の功績を讃えて賞品を与え、子孫末代まで村内の農家の最上座に立つことを許した。
 その後、翁は寛保二年頃に久留米近傍としては初めて櫨を植え農村産業の振興に務めた。さらに延亨年間には、郡奉行と相談して砂糖黍の栽培と製糖法研究のため長崎・四国方面を旅行した。帰郷後の数年間、さまざまの黍栽培法と製糖器機の製作に寝食を忘れついに苦心して蓄えた田畑・家財すらこれに費やした。
 不幸にも予期した十分の成果がないまま、安永八年九月翁の遺志を達成するように子孫に遺言して世を去った。ときに九十歳である。その後八女郡地方は砂糖の名産地として知られ、他地域でも生産が見られるようになったが、これらはみな翁の賜物といわれている。
 このたび翁の二百回忌に当り、子孫や縁者が集りその墓側に一碑を建て遺徳を偲ぶとともに、名を後世に伝えるため偉業の一端を記す次第である。

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