百姓一揆

商人の農村侵出、富農の高利貸化、貢租その他の負担の加重は農民の零細化・貧窮化を早めて、土地を基盤に身分的な奴属関係の上に成立した後期封建社会を根底からゆり動かす原因となりました。そのうえさきにのべた凶荒飢饉の度重なる襲来はただでさえ苦しい農民を生死の境に陥らせました。幕府各藩に於てもその輓回策として、いろいろの政策がとられましたがこの矛盾を打開することはできませんでした。また農民自身の貧窮打開策としては、消費量を削減するという外に道なく、極度に切りつめた生活を果たすためには家族数の切捨てさえのがれられなく、ここに人為的な人口制限が一般の風潮ともなりました。次の表によってもわかる如く初期に於て順調に増加してきた日本総人口も低滞のコースを辿り、久留米藩人口も宝暦年間以降現状維持の状態です。これは農村の二三男層の余剰人口を吸収するだけのはけ口がなかった当時として当然のことです。都市の膨張発展するころは都市への流入もあったでしようが江戸を中心に農村への人返しさえ断行されるに至ると二三男対策がありません。新田開発もその限度に達し、分家も不可能な事で田分けは「たわけ」とさえいわれたくらいです。

大城村一帯に於ても近世には分家は富裕な農家に限られ、特殊な地理的条件をもつ新田開発村でない限り無理だったのです。人口制限の方法として堕胎・殺児がふんだんに行われ、九州では五子あれば二児を殺すといい、土佐地方では一男二女を限度とすというふうに、農家の家族構成は労働に必要な最低限の人員を保つという考えでした。避妊法はあまりとられず、堕胎・殺児が専らでしたが、捨子も多く久留米藩令に再三の捨子禁を発しているくらいです。    

以上のことはどうにもならない当時の農村の暗胆たる嘆声ともきこえます。封建制を支える下層のこの矛盾は農民の消極的な支配階級への無言の反抗ともいえましょう。古老の耳にはこうした痛ましい見聞・追憶がまだ残っていることでしょう。


近世の人口一覧 久留米藩人口一覧
(武士階級約300万を除く)
(武士階級約9000名を除く)

享保以前  順調に増加している 享保十一  2655万   寛延 三  2615万    宝暦十二  2592万     明和 五  2625万     安永 九  2602万     寛政 四  2489万     文化 元  2551万     文政十一  2702万     弘化 三  2690万     明治十   3587万    

元和 七    13万0650人  元禄 五    13万7143人 宝永 三    16万0655人 寛延 三    18万0889人  安永 五    15万4830人  寛政 四    18万1975人 文化 二    18万2034人 

これに反して、現実の苦しみにたえかねた農民の爆発的な反抗が百姓一揆となってあらわれました。農民は年貢をつくる道具と考えられ永久に土地と結合させられて、雑穀雑菜を食い、たヾ働くことを強制され、隠忍を求められた農民が、理非を問わず藩主に対して直接行動に出るということは、封建社会の矛盾を何よりも如実に物語るものといえます。

近世六〇〇件の百姓一揆も後期に及んで急増し、年平均四回を算えました。その原因としては貢租に対する不満から起ったものが最も多く、直接動機は他にあっても結局それに帰着するものが多いのですが、封建社会の崩壊過程につれて回数も増加し、規模も大きくなりました。 久留米藩に於ても特記すべき百姓一揆三回、いずれも上三郡(生葉・竹野・山本)を中心に騒然たるものがあり、藩の心胆を寒からしめた事件でありました。    

第一回は享保十三年三月、上三郡の農民が騒然として鎮まらず、藩に於ては家老本荘主計の連判状を済し、郡方検見役へ藩の意向申渡しをして鎮撫につとめましたが効を奏しませんでした。八月に至り農民五七〇〇余人が善導寺に集合、追分を経て久留米に立向いました。十ヶ条よりなる願筋(要求)の主なものは人別銀・検見・夏物成・印銭運上・正徳検地等に対する改正・反対及び村役人の私曲に対することで一挙に城下に強訴をこヽろみたのでした。
途中府中切通しに於て、家老稲次因幡の申諭しに接し、さしもの衆勢も要求の多くを容れられるに及んで解決、解散しました。人別銀廃止・減税(十石につき一,一石赦免)等。かくて農民に一人の犠牲者を出すことなく要求の一部をかち取ったわけでしたが、因幡は津古村に謹慎蟄居してかの地に生涯を終りました。

享保の一揆の原因としてさきの十ヶ条にのべましたが、正徳年間の藩の幣制改革が藩民を窮地におとし入れる結果となり、藩財政の補充策として八才以上の男女に対する人別銀(人頭税)の徴収をこヽろみて藩民の反感となり、続いて正徳検地による畝数改めによって四八〇〇石の増加となりそれに対する貢租が加重したこと、春免法徴税・夏物成(夏作の三分の一徴税)・検見法等の新しいこヽろみは農民への誅求より外になく、藩の失政が農民の肩に転嫁されたことに対しての反抗でした。そのため藩が一歩後退して要求のある程度を容れざるを得なかったのです。    

続いて宝暦四年三月十九日頃より生葉郡騒然、またヽくまに竹野・山本・御井・御原・三潴に及びました。これは藩財政の打開策として宝暦二年発令した在町一統人別銀に対する藩民こぞっての批難が異常の反響となり、その他の問題とからんで爆発したのでした。
翌二十日には吉井若宮八幡宮に一村参集、二十一日には生葉全郡、二十四日には竹野・山本両郡を合して三万人、二十六日には御井・御原両郡を合して六万人。八幡河原にきせいをあげましたが、その壮観想像もできないくらいです。ときの藩人口の三分の一が八幡河原に立こもったというのですから。二十七日には三潴上妻方面がこれに相応じて、吉田山に参集、村吏宅破壊六三一戸に及ぶ実力行使に入っています。即ち久留米藩は一挙にして一揆の渦中に捲きこまれた形になりました。藩に於ては鎮撫使をつかわし、農民の願筋を聞入れることを約しましたので、上三潴は一応鎮静しましたが、三潴上妻一帯は破壊行為に入っています。城下久留米は戒厳令下の体制をとって、事態の急に対処しました。

惣郡百姓願書によりますと、その内容は人別銀を第一とする貢租関係十三ヶ条、村役人の私曲に関するもの四ヶ条、商人の暴利その他経済関係のもの二ヶ条、水利治水関係その他三ヶ条よりなり「近比耕作仕続不申家業を失ひ在所離散も仕成行には無仕方御歎申上候。」と窮状を訴えています。藩の懐柔策は効を奏して、城下久留米への強訴は未然に防がれました。六月在方への覚書を発し、農民の要求二十三ヶ条に対して譲歩を余儀なくされました。かくしてこの一揆は農民側に有利な結果をもたらすことはもたらしましたが、さきの享保一揆に反して八月に至り頭取十八人の死刑を断行、六十八人の追放、多数の過料といういたましい犠牲者を出して、農民の心胆を寒からしめ、かくて以後一揆の再発にとどめをさそうとしたのでした。主なる所刑者として御原郡大庄屋高松八郎兵衛、大城村関係に五郡追放の稲員村百姓三左衛門、塚島村百姓次右衛門があります。北部方面の農民が赤司八幡宮に勢揃いして八幡河原に立向ったむしろ旗・竹槍の悲痛な行進が記録によって想像されます。

第三回のは天保三年竹野郡亀王村を中心に、その余波は竹野・生葉一帯にひろがった騒擾で亀王組百姓一揆とも呼んでいます。亀王組農民二千人が徒党して大庄屋竹下仁助宅を打崩したことにはじまり、大庄屋・庄屋・田主丸商人等三十三戸が打崩し、放火の被害をうけました。しかしこの一揆は藩政に対する反抗でなく、一大荘屋の私曲に原因するものでした。即ち公金消費の後始末を農民に転嫁させ、専制的にその収納をはかったことに対する憤懣がひいてこの挙となったものです。そのため翌日には鎮静しましたが、四十九名の農民の犠牲者(うち頭取二名所刑)及び村吏級五十人の刑罰が行われ、幕末に於ける村政の腐敗を如実に物語るものといえます。

百姓一揆は専ら支配階級の苛斂誅求に対して戦ったのですが、その外当時新しく抬頭してきた地主・富裕商人・高利貸等の中間搾取者に対しても鉾先が向けられました。百姓一揆とともに庶民の斗争として見落すことのできないのは、都市貧民の「うちこわし」です。こうした戦によって封建的支配階級の無力化は農村に於ても都市に於ても暴露され、社会の秩序は急激に崩壊へむかいました。久留米市街には打崩しは起っていませんが幕末は百姓一揆・打崩しの激増を見、江戸・大阪を中心に慶応二年はその頂点に達し、維新の前夜を思わしむるものがありました。


次 へ
戻 る
ホームへ