明治維新と農村
封建制を制す大きな庶民の力は、経済上にも社会上にも、家族制の中にも、また学問思想としても寛政時代からぐ
んぐん成長してきました。産業と商業の発達は日本を封建的な分裂から一つに結びつける目に見えぬ糸を織っていま
したので、村の鎖国・藩の鎖国は経済上すでに大きく破れつつありました。そのことは百姓一揆の成長にもあらわれ
農民は村をこえて数万、数十万人と団結して闘争に立ち上ることもしばしばありました。天保年間大阪におこった大
塩平八郎の乱においては、大阪の町人のみならず、附近の農民・賎民を一丸とした封建的な身分差別をこえた団結さ
えなされました。
武士階級からも下級の武士層は彼らをとりまく身分制に対して不満をいだき、その改革を主張しはじめました。天
保年間は全国的な飢饉に数百万人がうえ、数十万人が餓死し、封建的搾取に対する反抗は百姓一揆・打こわしとなっ
てあらわれました。
幕臣である大塩平八郎の乱はその影響するところ甚大で、幕府諸藩は大あわてに幕政藩政の改革をはじめました。世
にいう天保の改革です。久留米藩に於ても天保十三年の大倹令を中心にした今日までにかってない藩政改革を断行し
て事態の急に処しました。しかし改良主義的なもので、要は封建支配の再編成をねらうものでした。〜 天保十三年
八月御勝手向改革(藩財政緊縮策)。大倹令(八月)。道中服装等心得(十一月)。諸役方詰所改革(十一月)。江
戸諸役統一(弘化二年正月)。道中風儀戒示(五月)。駅路條目(五月)。道中心得(五月)家中一統へ大倹令(
九月)。在町へ大倹令(十月)。寺社へ大倹令(十月)。別段荘屋設置。家中在町教戒示。金銀貸借へ戒示。在方出
役へ戒示。等々枚挙にいとまなく次々に発令されました。
ペリーの来航は封建日本に外から加えられた大打撃でした。日本はいやおうなしに資本主義世界にむかって国を開
かねばならなくなり、封建支配階級の深刻な危機をもたらしました。幕府の統制力を強め統一的な支配をつくってそ
の危機を脱けようとする保守派と新たな諸藩連合を組織しようとする改革派にわかれ、後者はやがて倒幕派と発展し
ました。このような支配階級の分裂、その間において下級武士がしだいに運動の主力となって勝利をとげるに至りま
した。
討幕派はたえず新しい政治を庶民に約束しつつ、百姓一揆や打こわし等の封建制に対する革命的斗争を利用し、ふみ
台としました。かくて元治慶応に全国の都市農村を風靡した民衆蜂起と討幕派の武力に屈して将軍徳川慶喜は政権を
放棄しました。
古今未曾有の規模をもった民衆の斗争も孤立分散して集中化をさまたげられ、しかも民衆の斗争を指導して近代市民
社会をつくり出すべき階級はいまだ成熟していませんでしたので、民衆の革命のエネルギーも討幕に利用されるにと
どまり、徹底的な封建制打破をはばまれました。
慶応二年には一五〇〇余件を算えあれほどはげしく全国津々浦々を吹きまくった百姓一揆・打こわしの嵐も翌三年
に入ると急減して、民衆は「ええじゃないか」の運動に踊り狂いました。慶喜が京都より大阪に遁れるという晩から
京阪の地に降り出した札は来る日も来る日も中空より散乱して京阪の町中が熱狂しつヾけました。「ええじゃないか
、ええじゃないか」の歌声とともに忘我の境に入った民衆は今にも何か大変革があり、幸福の降って湧くように考えて戸毎に神
棚に札を祭ったのでした。家業を忘れ、飲み食い歌いつヾけてこの運動は数日十数日継続しつつ、関西一円に関東に
奥羽にとひろがっていきました。そして民衆の革命的エネルギーはあらぬ方に利用され消耗されて、新しい日の訪れ
は民衆の期待を裏切っておよそかけ離れた姿として将来するのでした。
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