第五章 近代の大城村

一、明治時代の大城村

地方行政のすがた

将軍徳川慶喜の大政奉還に続く藩籍奉還、廃藩置県の一聯の諸変革によって「土地所有の封建的組織」が一応全く廃除せられ、こヽに統一的国家の出現をみることになりました。明治政府のとった農村政策のあとを辿り、郷土大城村の新しい門出に至るまでの過程を探ってみることにしましょう。

明治四年廃藩置県に際し、久留米藩は久留米県と称しましたが、まもなく久留米・柳河・三池の三県を廃して三潴県を置き、筑後一円十郡を管し、県廰を久留米に置きました。同年県内に郷村の分合が行われ、分村・合村・枝郷廃止合併等がありましたが大城村には関係ありません。同五年町村区劃改正があり町村に戸長兼里正を置きました。また三潴県管内区劃設定が行われ、大小区の設定に際し御井・御原・山本三郡を第四大区とし、それを十四小区に細分しました。区長・戸長・保長・什長等を置き、区長戸長事務章程が制定され、その事務内容が明かになりました。

戸籍・租税・土木工事・勧業(荒蕪地開墾・物産繁殖)・学校教育・徴兵・町村会等にわたる内容が示されています。戸籍はすでに調製されていました。壬申戸籍とよぶもので区内番号・屋敷番号が設けられ、人員が把握されていますが後の戸籍台帳の基本をなすものです。「租税金米ハ人民第一ノ要務ニ付兼テ成規ノ期限通上納取計方厚ク心得且戸長等若遅緩ノ事アレバ屹度督責シ以テ其職ヲ盡サシムルヲ要ス。」とあるように租税完納こそは戸長の第一の任務であったようです。当時戸長は旧荘屋層がその職に移ったのが一般の傾向でした。農村においては封建制度下そのままのすがたであったからでしょう。

明治八年三潴県管内にふたたび区劃改正が行われ、大区を十四に変更しました。御井郡は第十四大区に含まれました。明治九年三潴県を廃し福岡県に併合し、県廳を福岡に置きました。爾来今日までその後の管轄に変更改正はなく、三潴県は五ヶ年の短日月をもって姿を消しました。

同年大小区制を改め、町村の合併を行い大小区にかわる調所・扱所を置きました。御井・久留米は第一調所に編入され、大城村関係は第八及び第九扱所管下になりました。あたかも明治政府の大事業地租改正の途上にありましたが、町村の合併を行い、山須村を赤司村に合併して赤司村とし、大城村内島名は吉木村に合併して大城村より分離しました。また江戸・新田・下川三村を以て冨多村とし、鏡・高島二村を以て金島村とする等幾多の例があります。
大城村一帯の村政関係者は次の通りです。(明治十一年福岡県官吏区史人名録による)。
筑後第一調所   ○印は大城村出身者。

第八扱所
(大城村)
戸長 
山田 潔 
副戸長
 ○中垣広吉
書役
 ○中垣三作 ○伊東周蔵 山田梅吉 
第九扱所
(今山村)
戸長
長谷貞夫
副戸長
 ○重富卯八郎
書役 
木村幾太郎 戸田友次郎 ○田中 忠

明治十一年郡区町村編成法のもとに御井・御原・山本三郡の郡役所を久留米に置きました。当時の町村分劃は次の如くで、現在の大城村を構成する各村落がそれぞれの一グループを構成しかけていることがわかります。

村グループ名 耕 地 戸 数 人 口

○赤司・稲数・仁王丸・塚島・中島 ○乙吉・乙丸・大城 ○千代島・中村・陣屋

250町 143町 286町

364戸 199戸 328戸

1,815人 1,083人 1,563人

これは地方税費途節減を目的とするもので小村単位では財政上到底その負担に耐えぬ現状にあったため、急激に分劃改正の運びとなり、人情風俗の適否など考慮するいとまもなく決行されたのでした。そのため、明治十四・十五・十六年にわたり町村分劃の一部改正が行われましたが、大城村関係には異常なく、続いて十七年の分劃改正によって先にかかげた三グループの小村のうち千代島・中島・塚島・仁王丸・稲数・大城・乙吉・乙丸・赤司の九ヶ村をもって有力な一グループとし、役場を大城に置きました。村名は大城をもってこれにあてるという要求が記録によって見られますし、{千代島村外八ヶ村役場}の役場印が捺印されています。

三潴県設置以来十数年、地方自治のスローガンのもとに幾多の迂路曲折を経て、現在の大城村構成への歩みはつヾけられたのです。特に朝変暮改ともいうべき町村分劃改正のかずかずは生みの苦しみの姿とも見られますが、長い胎動を続けた新生児大城村の誕生も近づいてきたのです。

明治十七年町村分劃当時の戸数人口調査

村 名 戸 数 人 口
千代島85433
中 島31181
塚 島51254
仁王丸64358
稲 数56332
大 城164930
乙 丸1064
乙 吉1796
赤 司149829
627戸3.507人

 かえりみますと明治維新一聯の諸変革によって、封建制を維持さした身分制度が、一応廃除せられて四民平等の声のもとに、複雑多岐にわたる身分関係はたヾ族籍のみに過去の名残をとどめ、封建的諸制度も一つ一つはぎ取られていくのでした。封建的体制を支える基礎となった年貢の納入者としか認められなかった農民にも移転及び職業の自由が訪れ、土地の永代売買の禁止は解かれ、売買自由、農業の傍ら商業を営むことも自由、田畑の勝手作り、一般農民の米販売自由等々、近世の項でのべた諸制限は数ヶ年のうちにすべて廃除され、言論の自由の訪れとともに、土地に結合させられて三〇〇年の忍苦と忍従の歴史をたどった農民に、今こそ自由の蒼穹に雄々しく羽ばたける日が訪れたのでした。

しかし新しい行政機構の組織のうえに新しい時代の訪れはきたとはいうものの、農村の昔ながらの低劣な生産力と農民の暗い生活から開放される日の訪れは前途遼遠なるものがありました。支配階級の武士はすでに姿なく、古い伝統と慣習に封建的なにおい濃い荘屋も村になく、四民平等の世界となったとはいえ、伝統と慣行の根強い農村社会はまだ封建的な薄明が続きました。「庶民ニ至ルマデソノ志ヲ遂ゲ」るという五ケ条の誓文の美しい言葉を現実のものとするためには、まだまだ長い苦難の道を辿らなければなりませんでした。アジア的低滞といわれる日本の社会の低滞性、後進性、わけて農村は変革期に際しても古い残滓を一掃することができず、新しい日の訪れにもかかわらず、ほの暗い濕っぽい過去への郷愁さえ感じる傾向の強いことは維新後の農民騒擾のスローガンによってもうかヾわれます。明治維新が擬似革命といわれるのも故あることです。

かくて農村に於ては旧支配層の勢力を一掃することなく、戸長には旧莊屋層、保長には旧長百姓層が名を連ねることになりました。これらの層は単に社会的位置のみでなく経済的にも優位にあったので、やはり新時代のリーダー格としてよみがえったわけです。知識水準の低かった当時の農村に於て行政の末端にあったものは数少い農村の知識階級であったのですから、むりからぬことでもありました。

三潴県時代は五ヶ年という短日月でありましたが、地租改正を中心とする土地制度・租税制度の確立という劃期的な変革がなされ、また新貨幣制度への切換・学校設立・徴兵制実施等の重大な企図が次々に着手され実現されていくという時代であり、今一応かえりみるべき時代であります。

次に福岡県管轄地及び郡役所管轄区の沿革表をかかげて参考に供したいと思います。

福岡県管轄地の沿革(福岡県会沿革誌所載)

郡   名 藩政 時代 廃藩置県
明治4年(7月14日)
明治四年
(2月14日)
明治九年
(4月18日)
同年
(8月21日)

○筑 後 国 生 葉   竹 野   御 井   御 原   山 本   三 潴   上 妻   下 妻   山 門   三 池 ○ 筑 前 国 ○ 豊 前 国

久留米藩 柳河藩 三池藩 福岡藩 秋月藩 豊津藩 千束藩

  久留米県    柳河県    三池県    福岡県    秋月県    豊津県    千束県

 三潴県  福岡県  小倉県

 福岡県

 福岡県



筑後地区郡役所管轄区の沿革表(福岡県会沿革誌所載)

藩 名 明治5年
大区設定
明治8年
大区改正
明治11年
郡区分劃
明治29年
郡廃止分合

三 潴 山 門 三 池 上 妻 下 妻 生 葉 竹 野 山 本 御 井 御 原

第一  大区 第二  大区 第三  大区 第四  大区

第一  大区 第二  大区 第三  大区 第四  大区 第七  大区 第五  大区 第六  大区 第九  大区 第十  大区 第八  大区 第十一 大区 第十二 大区 第十三 大区 第十四 大区

三 潴 山 門 三 池 上 妻 下 妻 生 葉 竹 野 御 井 御 原 山 本

三 潴 山 門 三 池 八 女 浮 羽 三 井


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