明治政府の宗教政策

信教の自由は近代国家における一つの大きな特色です。しかし長い伝統をもつ封建社会の信仰や宗教は明治に入っても容易に改まりませんでした。明治初年神祇官が設けられ神社制度が定められますと、今まで寺院と密接な関係をもって混合されていた神社について神佛分離、廃佛棄釈(明治二年)が行われました。全国各地に寺院や佛像、佛具等の破壊が行われ、その結果は各地にいろんな問題が起りました。高良山などのように佛教伝来以来ふかい関係をもった神社に於ては、神佛分離は未曾有の問題でありましたし、幾多の波瀾も生じました。

佛教についてはキリスト教禁制のために全国民がいずれかの寺院の檀徒信徒であることを必要としたので、その点一応経済的な安定を得ましたし、戸籍方面にも関係をもって寺請制度は明治初年に及びました。しかし寺院は本寺末寺の関係が強制的に組織され、住職の任免権は本山本寺の掌るところでしたし、仁王丸の真教寺の如き本山の破門にあって肥前蓮池へ移っています。本山は権威に乗じて巨額の山費を末寺に割当てました。特に本願寺教団は他の多くの宗派よりその成立は遥かにおくれていますが、教団組織は極めて巧妙に強固につくられていましたし、寺院経営の経済的基礎は門徒の上にありました。門徒組織の頼母子講、積立講等によって寺院の経済収入ともなりました。
有馬氏は西本願寺と葛藤を生じ、藩内の西派をして東派に転派を命じましたが、かかる時代の寺院は幕府藩主の宗教政策によって、安隠を保証されていましたし、農民も教義などについてはさして関心もなく、来世の幸福に希望をもちつつ現実の忍苦の生活を甘受していたのでした。

高良山(五五四石余)・善導寺(二七七石余)・千光寺(五二石余)・北野天満宮(二六石余)等の古社寺は藩主より寺社領を寄進し、その経済的基礎も一応保証されていました。明治に及んで寺社領の没収により、これらの寺社も独自の経営に移りましたが、佛教は伝統的宗教として檀徒信徒の講的結合のうえに再出発しました。

明治初年政府のとった神祇官設置も復古思想の退潮とともに廃されましたが、のち明治二十三年政教分離の方針がとられ神社神道を宗教から分離して、全国の神社が統一され、国家宗教として出発しました。信教の自由が保証されたにもかかわらず、かんながらの道として宗教の外におかれた神道は天皇制の支柱として最近にまで及んだことは私たちのよく体験したところです。
幕末から急激に信徒を獲得しはじめた天理教・金光教等の教派神道は宗教として、新時代にふさわしい教養をもってめざましい布教の跡を示し、沈滞した佛教界にとって一つの警告ともなりました。
キリスト教は長い禁制のもとにも、ひそかに信仰の糸は繋がって明治に至りました。「かくれキリシタン」と俗にいう、これらの信徒は薄暗い納戸や物置の中で人目を忍んでただ一筋の光を求めつつ朝に夕に敬虔な祈りをささげてきました。新政府も幕府に続いて禁制弾圧の策をとりましたが、明治六年キリスト教禁制の高札を撤廃して、三〇〇年近い禁制にようやく解禁の日が来ました。

特に三井郡一帯には島原乱後其残党が御井郡府中に潜伏し、ひそかにキリスト教を信仰していましたが、その子左京・右京の兄弟が今村に移住して、ひそかに此教を宣伝したと伝えられています。やがて藩吏に知れて弾圧にあい、左京はおそれて遂に棄教しましたが、右京はジョアン又右衛門ともいって熱心な信者で改宗せず、遂に磔刑ハリツケに処せられました。これ以来久留米藩においては、此の地の住民に対して、厳重な監視を続け毎年二回ずつ踏絵を行い、疑わしいものは「類族改め」を行い、七代までは死亡する毎に、検使をやって死体を改めさした程の厳しい取締りでありました。久留米藩の記録にあるコロビ類族とは転宗後七代の子孫をさすものです。きびしい宗門改めのもとに、表面は佛教への帰依という形をとっていましたが、キリストへの信仰はひそかに続けられました。三井郡にも二、三発見されているマリヤ観音はこの厳重な監視のなかにも、ついに断絶させ得なかったこの信仰の象徴ともいうべきものです。 

憲法発布とともに信教の自由は保証され、明治二十八年右京の墓上に天主堂を建て、ついで大正二年現在に見る会堂の建築となりました。 大城村にもキリスト信仰はひそかに続けられ、明治に至り公然と信教の日が訪れましたので、キリスト教の分布を見ます。 

明治五年に戸籍法制定によって戸籍の調製がなされましたが、区内屋敷番号・族称・職業欄とともに檀徒関係・氏子関係の宗教面が記載されています。千代島方面のキリスト教信仰関係の農民も、この戸籍にはひとしく檀徒・氏子関係下となっていますから、強制的に藩の宗教政策のもとに統一していたのです。 

次に明治十二年に調製された大城村関係の、"社寺明細調帳"をかかげます。当時の神社の氏子関係・信徒関係及び寺院の檀徒関係をうかがうによい資料です。
明治三十九年、神社合祀の訓令があり、維持困難且信仰薄き神社を主たる村社及び信仰多き無格社に合祀することになりました。これは神社行政上の革新でありましたが、一方長い過去の信仰の歴史をもつ神社を一率に合併整理するということとなり、信仰上に与えた影響も小さくありませんでした。大城村でも仁王丸の合祀、赤司大三輪神社(山須氏神)・蚊田天満神社(蚊田氏神)合併整理等が行われ、現在にみる如き一村落一社の傾向に至りました。


 

寺社明細調帳要約(大城村関係) 明治十二年十月調

村名社格所在地神社名境内
面積
社有
面積
祭神鎮座
年次
祭礼
月日
氏子数詞掌
大城 村 大屋敷豊比
神 社
  坪
 428
  反
 3.3
豊玉姫命 不明 月日
 11.25
 171戸森 関次
 無 中筒井天 満
神 社
 260 2.1菅原道真正暦年中 11.16 宮崎 嵩
 仝 中船端今 宮
神 社
    不明 11.20 信徒
 300人
森 関次
乙吉 村  箱畑天 満
神 社
  80 1.2菅原道真永久年中 11.12 15戸宮崎 嵩
乙丸 仝  浦箱 仝 193 1.1菅原道真永久年中 11.17 10戸  仝
赤司 仝 城小路八 幡
神 社
1,004  3.7応神天皇
住吉大神
武内宿彌
延長2年  11
初卯日
 149戸  仝
 仝 南吉積大三輪
神 社
 158 1.9大己貴命 不明 11.13  7戸  仝
 無 六ッ江
  小路
天 満
神 社
  83 0.4菅原道真康和年中 11.24 信徒
 28人
 
 仝 北小路 仝    仝 不明 11.24 信徒
 35人
 
稲数 村  蚊田 仝 104 0.8  仝康保年中 11.15 58戸  仝
 無  稲数 仝 143 0.8  仝  仝 11.15 信徒
 23人
 
仁王丸 村天神屋敷 仝 291 3.1  仝応和年中 11.11 61戸  仝
 無 サヤ田忍 骨
命 社
  忍骨命享保9年  信徒
 372人
明治43年
神社合併
 仝  屋敷大己貴
命 社
  大己貴命 不明  372人  仝
 仝天神屋敷  池
神 社
  稲倉魂命文政九年  372人  仝
 仝 サヤ田 幸
神 社
  猿田彦命 不明  250人  仝
塚島 村 東裏畑天 満
神 社
 183 2.1菅原道真正暦年中 11.8  52戸宮崎 嵩
千代島 仝  堂丁八 幡
神 社
 332 2.7応神天皇
住吉大神
武内宿彌
天喜年中 11.15 88戸高尾龍守
中島 仝土居之内老 松
神 社
 118 1.3菅原道眞 不明 11月
初卯日
 31戸  仝



 

社寺明細調帳 (大城村関係) 明治12年10月調

村名所在地宗 派寺院名檀徒数境内面積本 尊由  緒
大城 日比生真宗東派 光蓮寺 378人  345坪 阿彌陀如来開基祐玄。古記ニ筑後
草野城主重親ノ家老古
賀監物、寛正元庚辛年
剃髪シテ、祐玄ト号シ
一宇ヲ基別荘ニ建設シ
、宝池山光蓮寺ト名ヅクトアリ。
赤司 横小路  仝 栄恩寺 605人  538坪   仝開基浄了。其祖先禁裡
御所北面ノ士大屋兵部
大夫忠義其弟俗称瓊田
兵部宗賢慶長二丁酉年
四月十日剃髪シテ、現
今ノ地ニ一宇ヲ創立ス
ト言フ。
稲数 蚊 田  仝 光福寺 554人  523坪   仝開基了傳。其祖先ハ筑
後国柳川立花宗茂家臣
ニシテ、俗称立花宗義
、慶長四丑亥年正月五日流浪シテ其弟立花源吾剃髪シ現今ノ地ニ一宇ヲ創立ストイフ。
仁王丸 大屋敷  仝 法圓寺 695人  403坪   仝当時祖先播磨守草野冬
永ノ弟草野三郎忠利剃
髪シ、其子宗善永正四
丁卯三年三月一宇ヲ現
今ノ地ニ創立ストイフ。

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