高良山(五五四石余)・善導寺(二七七石余)・千光寺(五二石余)・北野天満宮(二六石余)等の古社寺は藩主より寺社領を寄進し、その経済的基礎も一応保証されていました。明治に及んで寺社領の没収により、これらの寺社も独自の経営に移りましたが、佛教は伝統的宗教として檀徒信徒の講的結合のうえに再出発しました。
明治初年政府のとった神祇官設置も復古思想の退潮とともに廃されましたが、のち明治二十三年政教分離の方針がとられ神社神道を宗教から分離して、全国の神社が統一され、国家宗教として出発しました。信教の自由が保証されたにもかかわらず、かんながらの道として宗教の外におかれた神道は天皇制の支柱として最近にまで及んだことは私たちのよく体験したところです。
幕末から急激に信徒を獲得しはじめた天理教・金光教等の教派神道は宗教として、新時代にふさわしい教養をもってめざましい布教の跡を示し、沈滞した佛教界にとって一つの警告ともなりました。
キリスト教は長い禁制のもとにも、ひそかに信仰の糸は繋がって明治に至りました。「かくれキリシタン」と俗にいう、これらの信徒は薄暗い納戸や物置の中で人目を忍んでただ一筋の光を求めつつ朝に夕に敬虔な祈りをささげてきました。新政府も幕府に続いて禁制弾圧の策をとりましたが、明治六年キリスト教禁制の高札を撤廃して、三〇〇年近い禁制にようやく解禁の日が来ました。
特に三井郡一帯には島原乱後其残党が御井郡府中に潜伏し、ひそかにキリスト教を信仰していましたが、その子左京・右京の兄弟が今村に移住して、ひそかに此教を宣伝したと伝えられています。やがて藩吏に知れて弾圧にあい、左京はおそれて遂に棄教しましたが、右京はジョアン又右衛門ともいって熱心な信者で改宗せず、遂に磔刑に処せられました。これ以来久留米藩においては、此の地の住民に対して、厳重な監視を続け毎年二回ずつ踏絵を行い、疑わしいものは「類族改め」を行い、七代までは死亡する毎に、検使をやって死体を改めさした程の厳しい取締りでありました。久留米藩の記録にある転類族とは転宗後七代の子孫をさすものです。きびしい宗門改めのもとに、表面は佛教への帰依という形をとっていましたが、キリストへの信仰はひそかに続けられました。三井郡にも二、三発見されているマリヤ観音はこの厳重な監視のなかにも、ついに断絶させ得なかったこの信仰の象徴ともいうべきものです。
憲法発布とともに信教の自由は保証され、明治二十八年右京の墓上に天主堂を建て、ついで大正二年現在に見る会堂の建築となりました。
大城村にもキリスト信仰はひそかに続けられ、明治に至り公然と信教の日が訪れましたので、キリスト教の分布を見ます。
明治五年に戸籍法制定によって戸籍の調製がなされましたが、区内屋敷番号・族称・職業欄とともに檀徒関係・氏子関係の宗教面が記載されています。千代島方面のキリスト教信仰関係の農民も、この戸籍にはひとしく檀徒・氏子関係下となっていますから、強制的に藩の宗教政策のもとに統一していたのです。
次に明治十二年に調製された大城村関係の、"社寺明細調帳"をかかげます。当時の神社の氏子関係・信徒関係及び寺院の檀徒関係をうかがうによい資料です。
明治三十九年、神社合祀の訓令があり、維持困難且信仰薄き神社を主たる村社及び信仰多き無格社に合祀することになりました。これは神社行政上の革新でありましたが、一方長い過去の信仰の歴史をもつ神社を一率に合併整理するということとなり、信仰上に与えた影響も小さくありませんでした。大城村でも仁王丸の合祀、赤司大三輪神社(山須氏神)・蚊田天満神社(蚊田氏神)合併整理等が行われ、現在にみる如き一村落一社の傾向に至りました。
寺社明細調帳要約(大城村関係) 明治十二年十月調
村名 | 社格 | 所在地 | 神社名 | 境内 面積 | 社有 面積 | 祭神 | 鎮座 年次 | 祭礼 月日 | 氏子数 | 詞掌 |
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大城 | 村 | 大屋敷 | 豊比 神 社 | 坪 428 | 反 3.3 | 豊玉姫命 | 不明 | 月日 11.25 | 171戸 | 森 関次 |
仝 | 無 | 中筒井 | 天 満 神 社 | 260 | 2.1 | 菅原道真 | 正暦年中 | 11.16 |   | 宮崎 嵩 |
仝 | 仝 | 中船端 | 今 宮 神 社 |   |   |   | 不明 | 11.20 | 信徒 300人 | 森 関次 |
乙吉 | 村 | 箱畑 | 天 満 神 社 | 80 | 1.2 | 菅原道真 | 永久年中 | 11.12 | 15戸 | 宮崎 嵩 |
乙丸 | 仝 | 浦箱 | 仝 | 193 | 1.1 | 菅原道真 | 永久年中 | 11.17 | 10戸 | 仝 |
赤司 | 仝 | 城小路 | 八 幡 神 社 | 1,004 | 3.7 | 応神天皇 住吉大神 武内宿彌 | 延長2年 | 11 初卯日 | 149戸 | 仝 |
仝 | 仝 | 南吉積 | 大三輪 神 社 | 158 | 1.9 | 大己貴命 | 不明 | 11.13 | 7戸 | 仝 |
仝 | 無 | 六ッ江 小路 | 天 満 神 社 | 83 | 0.4 | 菅原道真 | 康和年中 | 11.24 | 信徒 28人 |   |
仝 | 仝 | 北小路 | 仝 |   |   | 仝 | 不明 | 11.24 | 信徒 35人 |   |
稲数 | 村 | 蚊田 | 仝 | 104 | 0.8 | 仝 | 康保年中 | 11.15 | 58戸 | 仝 |
仝 | 無 | 稲数 | 仝 | 143 | 0.8 | 仝 | 仝 | 11.15 | 信徒 23人 |   |
仁王丸 | 村 | 天神屋敷 | 仝 | 291 | 3.1 | 仝 | 応和年中 | 11.11 | 61戸 | 仝 |
仝 | 無 | サヤ田 | 忍 骨 命 社 |   |   | 忍骨命 | 享保9年 |   | 信徒 372人 | 明治43年 神社合併 |
仝 | 仝 | 屋敷 | 大己貴 命 社 |   |   | 大己貴命 | 不明 |   | 372人 | 仝 |
仝 | 仝 | 天神屋敷 | 池 神 社 |   |   | 稲倉魂命 | 文政九年 |   | 372人 | 仝 |
仝 | 仝 | サヤ田 | 幸 神 社 |   |   | 猿田彦命 | 不明 |   | 250人 | 仝 |
塚島 | 村 | 東裏畑 | 天 満 神 社 | 183 | 2.1 | 菅原道真 | 正暦年中 | 11.8 | 52戸 | 宮崎 嵩 |
千代島 | 仝 | 堂丁 | 八 幡 神 社 | 332 | 2.7 | 応神天皇 住吉大神 武内宿彌 | 天喜年中 | 11.15 | 88戸 | 高尾龍守 |
中島 | 仝 | 土居之内 | 老 松 神 社 | 118 | 1.3 | 菅原道眞 | 不明 | 11月 初卯日 | 31戸 | 仝 |
社寺明細調帳 (大城村関係) 明治12年10月調
村名 | 所在地 | 宗 派 | 寺院名 | 檀徒数 | 境内面積 | 本 尊 | 由 緒 |
大城 | 日比生 | 真宗東派 | 光蓮寺 | 378人 | 345坪 | 阿彌陀如来 | 開基祐玄。古記ニ筑後 草野城主重親ノ家老古 賀監物、寛正元庚辛年 剃髪シテ、祐玄ト号シ 一宇ヲ基別荘ニ建設シ 、宝池山光蓮寺ト名ヅクトアリ。 |
赤司 | 横小路 | 仝 | 栄恩寺 | 605人 | 538坪 | 仝 | 開基浄了。其祖先禁裡 御所北面ノ士大屋兵部 大夫忠義其弟俗称瓊田 兵部宗賢慶長二丁酉年 四月十日剃髪シテ、現 今ノ地ニ一宇ヲ創立ス ト言フ。 |
稲数 | 蚊 田 | 仝 | 光福寺 | 554人 | 523坪 | 仝 | 開基了傳。其祖先ハ筑 後国柳川立花宗茂家臣 ニシテ、俗称立花宗義 、慶長四丑亥年正月五日流浪シテ其弟立花源吾剃髪シ現今ノ地ニ一宇ヲ創立ストイフ。 |
仁王丸 | 大屋敷 | 仝 | 法圓寺 | 695人 | 403坪 | 仝 | 当時祖先播磨守草野冬 永ノ弟草野三郎忠利剃 髪シ、其子宗善永正四 丁卯三年三月一宇ヲ現 今ノ地ニ創立ストイフ。 |