地租改正

廃藩置県のころより地租改正への準備的措置がとられてきましたが、明治六年地租改正条例及び地租改正規則が公布されて、改正事業はいよいよ実施の段階に至りました。

三潴県告示によれば、明治六年九月「令シテ云地租改正ノ儀ニ付謹テ別紙条例並規則熟考審按スルニ従前貢納ノ方法ハ相廃シ、更ニ地券調査済次第地價百分ノ三ヲ以テ税額一定ニ相成猶向後物品税追々発令ノ上地租ハ百分ノ一ニ相成迄漸々減少セラルベキ旨公告ノ條々実ニ維新ノ大更ニシテ則寛苛軽重ノ幣ナク公平畫一ニ帰セシメラルル厚大施仁ノ朝旨ナレバ、各区毎反別全ク其改正ヲ遂ルハ賦斂ニ軽重ナク衆庶ニ労佚ナク各箇人民其所有者ヲ保固シ其産業ニ安着スルノ基礎ナリ。」とあり、その意図するところが奈辺にあるかが推測されます。

明治新政府の歳入財源としての地租は経常歳入の八割に及び最も重要なものでした。富国強兵・殖産興業のスローガンのもとにすすめられる政策は全人口の八四%を占めている農民の貢租を財源とするものでした。そのために租税制度の樹立をねらったわけです。地租改正の骨子をなすものは次の如くです。

(一)、課税標準  従来収穫を標準としていたが改めて地価を課税標準とす。

(二)、税  率   地価百分の三を定率とす。豊凶により増減せず。

(三)、収納物件  物納を廃し一律に金納とす。

(四)、納税者    従来土地占有者であったのが、土地所有権者となる。

明治七年改正事業はまだ緒につこうというのに際し、小倉県に於てはすでに着々その成果をあげ、改正の新地租をもって貢納しようという段階に至ったことが、三潴県の改正事業を一刻も猶予できぬ事態に至らしめました。 この際三潴県に於ては小村合併・交換分合・飛地整理等も実施することになり村は一〇〇〜一五〇町歩を基準としてその体制を整えようと企図しました。これは福岡・小倉県にも類例のないことでしたし、全国的にも稀なことでした。

大城村関係では、筑後川両岸に位置している嶋名の分離がなされました。嶋名は大城村内の一字として戸数三十余・耕地宅林面積二十三・五町歩をもつ村落で、古い歴史を伝えていましたが改正に際し吉木村に合併しました。当時としては大問題であったらしく大城村一帯の反対猛運動が続けられたのですが、県の方針のもとに分離合併の運びとなりました。かくて大城村が縮小した形となりましたが、筑後川畔の飯田村飛地三町余が大城村に編入されましたので、南部方面では結局二十町歩の土地削減という結果になりました。北部方面では山須村は赤司村に合併し同時に乙丸村の一部を編入して赤司村は有力な村となりました。

各区戸長のもとに民撰下調係を命じ事業の進捗につとめました。

地租の基礎となる地価算定はこの事業の中心となるものですから第一に竿入検地に着手しました。土地測量は十字求積法により、六尺一分方三〇〇歩をもって一反歩とし、一筆毎に竿入れをしましたから、不正確な新開田や隠田畑などもみな明るみに出、検地による耕地面積の増加は莫大な面にのぼることでしょう。

田畑より宅地・藪・山林・池堀・墓地・寺社境内にわたるものすべてが検地の対象となりました。明治八年一月県に於ては菜や麦が繁茂しないうちに竿入検地を終了することを達し、検地に際しては「区長心得概目」や「検地用具」などを示し、戸長三名、保長一名をもって一組として一村ずつ遂次にすゝめていきました。八年二月「現地調査之大意」を達し、検地についての具体的な調査事項・留意点・準備すべきものを明確にして、七十町歩の村六ヶ村の竿入地価調に約一八〇日をもって終了することを企図しているようです。改正事業関係文書として、水図帳・一筆限帳・耕地図(字図)・地価取調帳・荒地潰地調帳・収穫取調帳・墓地一筆限帳等があります。

同九年二月の達示には改正事業が計画に反し遅々として進捗しないのでその督促督励がなされ、特に地価決定の重大性にかんがみて「地租改正ニ付地位等級調査心得書」を達しました。「地位等級ヲ定ムルハ賦ニ偏頗ナカラシメン為ニ其クモノ」で、地味沃瘠・両三作得益・耕耘難易・水理便否・日当良否・水旱有無・収穫多寡・人笙深浅等によって、田畑は一〜十等、宅地は一〜五等の地位等級の決定を敢行しました。かくて地価算定の運びとなりました。次にかかげるのは大城村一帯の地位等級及収穫表ですが、併せて地価算定の方法も掲げましょう。

  一、等級之部

階級 村    名
上等 塚島・乙吉・大城・鏡・高島・八重亀・守部・安永・染            9ヶ村
中等 中島・稲数・赤司・山須・乙丸・西原                     6ヶ村
下等 江戸・仁王丸・下川・新田・徳次・松木・友光・菅野・吉竹・千原    10ヶ村
                 

二、収穫之部

等級 田畑 上田(畑) 下々
上等村 反当 石
1.5

1.2

1.0

0.7
0.85 0.65 0.4 0.25
中等村 1.3 1.1 0.95 0.65
0.65 0.5 0.35 0.25
下等村 1.15 1.0 0.9 0.6
0.55 0.4 0.3 0.15


三、地価・地租算定方法(凡例)

田一反歩   (1) 収穫米     一石五斗   (2) 代価      四円八〇銭 (一石に付三円)   (3) 種肥代     〇円七二銭 (収穫高の一割五分)   (4) 差引代価    四円〇八銭   (5) 地租      一円二二四 (差引代価四円〇八銭の三割)   (6) 地方税     〇円四〇八 (地租の三分の一)   (7) 地租・地方税  一円六三二   (8) 収穫代価より地租・地方税を除いた金額 二円四四八 (但仮に六分の利と見做す)   (9) 此地価     四〇円八〇銭  (10) 地価の百分の三 一円二二四

以上でみてわかるように、地価は売買価格でなく収益価格でした。

大城村一帯竿入検地・一筆限帳調製に四ヶ月を要し、諸調書完成までには相当の月日を要していますが、明治九年には大城村一帯の土地関係の文書も整備されるに至りました。

従来筑後川敷の採草地、堤敷等の原野山林は各村共有として占用を続けてきましたが、所有者不明地・入会地の没収官有地編入に及んで、これらの区域に官有地七十五町歩が占めてしまいました。自給自足経済下の採草地として肥料の給源地として封建農業になくてはならなかった村共有の占有地も、今や堤防使用願・堤防に生ずる副産物受負願・筑後川敷占用願・櫨実秣茅受負願を提出して使用しなければならぬ運命となりました。明治九年官有地拝借見立取調帳が調製されています。明治三十八年筑後川沿岸官有地占用は地元市町村より出願することに変更され、官有地成一筆限帳の整備をみています。

短日月のうちに強行した地租改正事業はその後部分的な諸修正がなされましたが名実共に完全な近代的な租税制度の確立ができなかったところに後長くまで多くの問題をはらんだのでした。明治十五年県治史料に「地籍編纂ハ頗ル重大ノ事件ニシテ就中本県ノ如キハ地租改正ノ際未ダ盡サザルヲ以テ其費モ亦大ナラザルヲ得ズ」とありますが、地租改正以来十年にわたる日月を要して地籍の完備となったものでしょう。明治十八年再測量(三叉法による) を経て土地台帳が調整され翌十九年登記法が制定されています。 大城村に於ける土地台帳の完成は明治二十八年、地価修正後の台帳整理は漸く三十九年に完成しています。

地租改正につながる一聨のものとして明治九年、各村地方名寄帳が調製されています。これは土地台帳の基礎をなすものとみられますが、各戸毎に地租関係をまとめています。現在大城・乙吉・乙丸・赤司五ヶ村の名寄帳が残されていますが、当時の土地所有状況をみるのに貴重な記録です。

地券については改正に先立つ明治四年すでに公布されていましたが、地租改正の済んだ所に一筆毎に地券を渡すことになりました。従来土地占有用益権のみを認められていたにすぎなかった全国の土地は地券をもつものの所有であることが公認されました。新地租は地券記載の地価を標準として賦課され、地券所有者(土地所有者)が納入することになりました。「福岡県地租改正御旨意書」に「銘々所持の田畑屋敷は勿論村中にあるところの土地はのこさずもらさず皆な反別を取調 子さかひをただし地引絵図にかきしるし、道溝池より山林に至るまで入狂ひ間違等一切無之子々孫々までも故障の起らぬ様になし其上地所の地券を授けたまひ、万一家内中不幸か打続て女子供になるよふなことあるも、どのよふなことあるとも外のわるものによこどりせらるることなく又金銀取引貸借にも地券をかき入証據にすれば、かしたをれもなく二重かりするものもなき様に相なり、つまり証據を所持せしめ、永く家徳を失ふ様のことなからしめ給ふところなり」とあります。

下は地券の写で、左が表面右は裏面です。


    地   券
大  筑後国御井郡赤司村 千五百四十八番地ノ一   字定角 日 同国同郡同村 持主  溝 上 嘉 七 本 光 安 勇三郎   一、堀敷廿貮歩 帝   地價 此百分ノ三金     地租 国 明治十年ヨリ 此百分ノ二ヶ半金   地租 政  右検査之上授與之  明治十一年三月一日 府 福  岡  縣

日本帝国ノ人民土地ヲ所有スルモノ ハ必ラス此券状ヲ有スヘシ 日本帝国外ノ人民ハ此土地ヲ所有ス ルノ権利ナキ者トス 故二何事ノ事 由アルトモ日本政府ハ地主即チ名前 人ノ所有ト認ムヘシ 日本人民ノ此券状ヲ有スルモノハ其 土地ヲ適意二所有シ又ハ土地ヲ所有 シ得ヘキ権利アル者二売買譲渡質入 書入スル事ヲ得ヘシ 売買譲渡質入書入等ヲナサントスル モノハ渾テ其規則ヲ遵守スヘシ若シ 其規則二因ラスシテ此券状ヲ有スル トモ其権利ヲ得サルモノトス


明治十一年農村の基本調査として「土木調査」が実施されていますが、地租改正の検地によって地目別の面積その他の大体を把握できましたけれど、更に農業生産の基礎、土木経営の基礎を確把するための調査でした。当時の土木調査の一部及び土木改正日誌が残っていますので、それによりますと調査内容は地目別の面積及び河川・堤防・用悪水等にわたり、河川の部に川敷地・堤防延長・堤防状況・水刎数等。道路については村路・作道の延長を、用悪水については用悪水延長・埋樋・土橋・水門・水流伏石・石橋・掛樋・水門等が対象として調査されています。六月より九月に至る一〇〇日間を要した土木改正事業は地租改正につぐ大事業であったのです。

続いて十九年、三十六年同調査は重ねて行われ更に詳細正確な実態が把握されました。これらの資料から大城村の農業生産体制が整備していく過程がうかがわれます。

また明治十年には筑後地区の地誌編纂がすすめられ、大城村関係としては第十四大区小二区扱所に於て稲数・仁王丸・中島・千代島・塚島五ヶ村分の地誌草案が現存しています。これは福岡県地誌編纂の一端を示すものですが、この地誌草案によって当時の農村の状況を識ることができ又幾多の示唆も与えられます。


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